第17話:黄色の要塞(ラーメン)と、束の間の休戦
第17話:黄色の要塞と、束の間の休戦
二〇二六年四月五日。
佐伯との決戦から二日。エルナの右拳にはまだ微かな痺れが残り、ハンスの研ぎ澄まされた神経も、ようやく日常の弛緩を受け入れ始めていた。
「ハンス。……山本殿が言っていた『戦士の休息に相応しい糧』とは、ここか?」
二人が立っているのは、新橋の路地裏。強烈な醤油とニンニクの香気が、物理的な圧力となって鼻腔を突く「二郎系」の店前だった。看板の黄色は、警告色か、あるいは未知なる豊穣の合図か。
「……エルナ様。ここからは未知の領域です。心してかかりましょう」
店内は、一種の異常な熱気に包まれていた。
——ジャッ、ジャッ!
巨大な平ザルが麺の湯を切る、力強い打撃音。
——ゴォォォ……。
巨大な寸胴の中で、豚骨と脂が濁流となって唸る重低音。そして。
「ニンニク入れますか?」
「——ヤサイマシマシアブラカラメ」
客たちが発する、感情を排した呪文の響き。それはアステリアの魔導士たちが唱える詠唱よりも、遥かに実戦的で、容赦のない音だった。エルナはカウンターに置かれた黒檀のマイ箸を、戦斧のように握り直した。
「お待たせしました」
——ドンッ!!
目の前に置かれたのは、もはや料理の概念を逸脱した「山」だった。標高二十センチはあろうかという茹で上げられた野菜。その頂面を覆うのは雲海のような背脂。地層のように分厚い豚の塊。
「…………ッ」
ハンスが絶句する。だが、エルナの瞳には戦士特有の歓喜が宿っていた。
「……いいだろう。この要塞、私が一気呵成に攻略してくれる!」
——ズ、ズズズッ……!
エルナが極太の麺を啜り上げた。それは啜るというより、強靭な生命力を引き摺り出す音だった。ワシワシとした食感の麺が、強塩価のスープを纏い、彼女の喉を「ゴキュッ」という音を鳴らして通り過ぎる。
「……強い。この麺の弾力、まるでアステリアの剛剣を受け止めた時の手応えだ」
「姫、この豚も……。繊維が崩れる際のホロリという音の後に、脂が爆ぜる音が聴こえます」
二人は一心不乱に食らいついた。かつての王宮の優雅な会食では決して許されなかった、魂の叫びのような食事。十五分後。そこには、空になった丼と、一筋の汗を拭う主従の姿があった。
「……ふぅ。山本殿の言った通りだ。これは、戦いだった」
店を出ると、四月の夜風がニンニクに火照った肌に心地よい。だが、その夜、アパートへ戻った二人に、本当の「休息」が訪れる。
——シュゥゥゥ……。
ハンスがキッチンで静かに火を点ける。二郎系の暴力的な熱量を鎮めるための、澄み渡った音。
「……外の戦いも良いですが、やはり最後はこれで締めねばなりません」
差し出されたのは、アステリア王宮伝統の「翡翠の蒸し餃子」。
——パカッ。
蓋を開ければ、朝露のような繊細な湯気がエルナの顔を包み込む。先ほどのニンニクの残響を、ハンスの手料理が優しく、だが鮮烈に上書きしていく。
——ハフッ、ジュワッ。
薄い皮が弾け、中から帆立とセリの清涼な香りが溢れ出した。
「……ハンス。二郎という戦場の後に聴くこの蒸気は、まるで凱旋門を潜る祝歌のようだ」
「もったいないお言葉です。明朝には、ニンニクのノイズも消えていることでしょう」
新橋の夜。二DKのアパートから漏れるのは、安らぎに満ちた咀嚼音。
カチッ。
エルナが、満足げに箸を置いた。
「休息の時は、終わりだな。……次は、どんな音が私を呼ぶだろう」
夜風に混じる微かな醤油の香りと、アパートに満ちる優しい湯気の香り。
二つの世界を繋ぐ音の中に、姫騎士探偵は次なる戦いの予感を感じ取っていた。




