第16話:断罪の黒板(ブラックボード)と、騎士の静寂(サイレンス)
第16話:断罪の黒板と、騎士の静寂
二〇二六年四月三日、深夜。
新橋駅前の雑居ビル四階、進学塾『叡智館』。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った廊下に、エルナの軍靴が、死神の秒針のような音を立てて響く。
——コツ……コツ……。
「……来たか。不法侵入ですよ、お嬢さん」
最奥の教室。月明かりだけが差し込む教壇に、男が一人、背を向けて立っていた。教師・佐伯だ。右手には一本のチョークが握られ、黒板には狂気じみた数式が、まるで呪文のようにびっしりと書き連ねられている。
「佐伯先生。……四月一日の授業は、まだ終わっていないようだな」
エルナは教室の中央で足を止めた。背後には、影のようにハンスが控えている。
——シュッ、シュッ、コツンッ!
佐伯は振り返りもせず、黒板に白い線を刻み続ける。その音は、もはや知識を伝えるためのリズムではない。鋭く、速く、そして絶望的に乾いた断裂の音だ。
「この街の音は、あまりに騒がしすぎる。私はね、それを消去したかっただけなんだ。あのフランクフルトを食べていた彼のように、無防備なノイズをね……」
——カチャッ。
佐伯がチョークを教卓に置いた。その僅かな音が、静まり返った教室に爆音のように響く。彼の手には、研ぎ澄まされた剥き出しの殺意が握られていた。
「……死ね、不協和音め!」
佐伯が教卓を蹴って跳躍した。その動きは規律に縛られた男とは思えぬほど、直線的で、速い。だが、エルナは動かない。彼女は目を閉じ、男が踏み出す床の軋みを「聴いて」いた。
(……右、三歩目。重心が浮いたな)
——シュッ!
エルナが懐から一対の黒檀のマイ箸を抜き放つ。月光を受けて鈍く光るその枝が、空気を切り裂く。
——キィィィィン!
金属と木材が触れ合う、耳を刺すような衝撃音。佐伯の突き出した凶器を、エルナは箸の先端で正確に受け流した。
「な……箸だと!? ふざけるな!」
「ふざけてはいない。これは私の規律だ。……佐伯先生、貴殿の攻撃には、教科書通りの退屈な拍子しかない」
そこへ、後方にいたハンスが冷徹な声を重ねた。
「佐伯先生。あなたの体からは、この塾の安っぽいインスタントコーヒーと、隠れて摂取した大量のタブレット菓子の匂いがします。……脳だけを回し、胃袋を軽視した者の動きは、あまりにも脆い。あなたのその震える呼吸音……それは、勝利を確信した者の音ではなく、正解を間違えた生徒の怯えそのものです」
「黙れッ!!」
図星を指された佐伯が逆上し、次の一撃を放つ。だが、エルナはすでにその「崩れた音」を逃さなかった。
——ドォォォォン!
エルナが踏み込んだ。床を蹴る衝撃が、教室の窓ガラスを震わせる。
「ハッ!」
エルナの黒檀の箸が、佐伯の手首の正中線を捉えた。
——パキィィィッ!
乾燥したチョークが折れるような、鮮烈な断裂音。佐伯の手から凶器が滑り落ち、虚しい音を立てて床を転がった。
——カラン、カラン……。
「……っ、あああああ!」
佐伯が床に崩れ落ちる。その時、教室の扉が勢いよく開いた。
——バァァァン!
「動くな! 警視庁だ!」
山本警部率いる捜査員たちが一斉に流れ込んでくる。怒号と、無線機のノイズ。新橋の日常が、再び聖域(教室)を塗り替えていく。エルナは静かに箸を懐へ収めた。
「山本警部。……この男の補習をお願いする。四月一日の嘘は、これで完全に暴かれた」
「……助かったよ、エルナ」
山本が安堵と苦渋の混ざった溜息を吐く。
エルナは窓の外を眺めた。遠くで、ゴォォォ……という電車の地鳴りが聴こえる。いつもと同じ、新橋の夜の音だ。だが、今の彼女には、その音が少しだけ調律されたように聞こえていた。
「ハンス、帰るぞ。……約束だ。最高に熱い点心を用意しろ。……この男の、冷え切ったチョークの味を、上書きしてやる」
「御意。……今夜は、王宮の朝焼けのような、最高の蒸気をお見せしましょう」
二人の影が深夜の塾を後にする。
背後で鳴り響くパトカーのサイレンは、騎士の凱旋を祝う、新しい時代の序曲であった。
自らの胃袋が、勝利を祝って小さく、グゥ、と鳴る音を聴きながら。




