第15話:聖職の仮面と、チョークの残響
第15話:聖職の仮面と、チョークの残響
二〇二六年四月三日、深夜。
新橋のアパートのテーブルには、山本警部から共有された証拠品の接写写真と、ハンスが独自にまとめた「食の解析データ」が散らばっていた。
「ハンス、もう一度あのフランクフルトの断面を見せろ」
エルナの声は、低く、冷徹な響きを帯びていた。
「ハッ」
ハンスがタブレットを操作する。——シュッ、という画面が切り替わる電子音。
「注目すべきは、マスタードの付着パターンです。……これは単なる記号ではなく、無意識の『肉体的な癖』だ。指先を一定の角度で固定し、手首の回転だけで塗布している。これは、日常的に垂直な壁面へ『書く』動作を繰り返す者の軌道です」
「垂直な壁面……黒板か」
エルナは目を閉じ、回転寿司屋で掴みかけた「音の断片」を呼び戻した。隣の客が箸を落とした「カラン」という音。それが、現場の排水溝の蓋から響いた音と重なった瞬間。
(……いや、あれは金属音ではなかった。もっと乾いた、石灰質の、脆くも硬い衝撃音……)
「ハンス。あの現場に落ちていた、見落としがちな『白い粉末』。あれを解析したか?」
「……成分は炭酸カルシウム。この国で一般的に流通している『チョーク』の破片です」
エルナの脳内で、バラバラだった音が一つの方程式へと収束していく。
——コツ、コツ、コツ……。
黒板を叩く、小気味よい、だがどこか支配的なリズム。
——シュッ。
教卓に置かれる出席簿の、乾いた摩擦音。
「犯人は、現場に『教鞭』を置いていたのだな。排水溝の蓋の上に、儀式のように……。そして、あのフランクフルトの噛み方は、生徒に背を向け、僅かな休み時間に胃袋へ流し込む『教員の摂食』そのものだ」
エルナがスマートフォンを掴む。——ピポパ、という発信音が、深夜の室内に緊張を走らせる。
「警部か。エルナだ。……犯人のプロファイルが完成した。三十代から四十代の男性。職業は……教師。それも、新橋周辺の塾、あるいは私立校に勤める、規律に病んだ男だ」
電話の向こうで、山本が息を呑む「……ッ」という音が漏れた。
「……なぜそう言い切れる?」
「音が教えてくれた。彼にとって、あの殺害現場は『放課後の教室』だったのだ。被害者の傍らにフランクフルトを供えたのは、それが彼の唯一の『安らぎ(嘘)』だったからだ。……だが、四月一日の雨が、彼のチョーク(武器)を濡らし、音を変えてしまった」
数分後。山本から送られてきた「要注意人物リスト」のデータが、ハンスの端末に届いた。
「……出ました。新橋駅前の進学塾講師、佐伯。事件当夜、現場近くのコンビニでフランクフルトを購入する姿が防犯カメラに。……彼は数学の教師です。図形を描く際、独特の手首の返しをすることで知られています」
——カチャ。
エルナが、黒檀のマイ箸を手に取る。それはもはや食事の道具ではない。悪を捕らえるための、一対の術理だ。
「さあ、ハンス。この男の『授業』を終わらせに行こう。……四月一日の嘘は、もう期限切れだ」
二人はアパートを飛び出した。夜の新橋。
——ゴォォォ……。
電車の地鳴りが、今は犯人を追い詰めるための進軍ラッパ(ファンファーレ)に聞こえる。
エルナの軍靴が、アスファルトを「コツ、コツ」と叩く。その音は、もはや迷いも停滞もない。一人の教師が新橋の闇に刻んだ歪な方程式を、彼女の聴覚が、今、最後の一行まで解き明かそうとしていた。
「ハンス。……奴を捕まえたら、今夜はとびきり熱い『点心』を作ってくれ。この不快なチョークの粉を、旨い蒸気で洗い流したい」
「御意。……最高の火加減で、お待ちしております」
闇の中、二人の影が、新橋駅前のネオンへと消えていく。決戦の音は、すぐそこまで迫っていた。




