第14話:円環の迷宮(ラビリンス)と、停滞の魚鱗
第14話:円環の迷宮と、停滞の魚鱗
二〇二六年四月三日。
あの日、路地裏に転がっていたフランクフルトの「声」は、依然として霧の中に消えたままだった。ハンスがマスタードの符号を解析し、山本警部が周辺の監視カメラを洗ったが、犯人は最初から存在しなかったかのように、新橋の雑踏に溶け込んでしまった。
「……くそ。私の耳は、これほどまでに無力だったか」
エルナは、一人で新橋の駅前を歩いていた。軍靴の音は、二日前よりもどこか重く、湿っている。春の陽光は眩いほどだが、彼女の心象風景は、いまだにアステリアの戦場の如き緊張感を保てず、四月一日の冷たい雨に濡れたままだった。
ふと、目に留まったのは「回転寿司」の看板だった。絶え間なく回る、色鮮やかな皿。そこには、止まることのない無機質な循環があった。店内へ一歩足を踏み入れると、そこは独特の、非情なリズムに支配されていた。
——カタン、カタン……。
——シュゥゥゥ……。
一定の速度で回り続けるベルトコンベアの駆動音。その上を、秩序正しく行軍する皿の群れ。エルナはカウンターの端に座り、その回る世界を凝視した。
(……この音だ。一分の狂いもなく、同じ軌道を通り過ぎていく。この街そのものではないか。数百万の人間が、毎日同じ時間に同じ場所を通り過ぎ、誰もが誰にも気づかずに消えていく……)
彼女の前に、一皿の赤身が流れてきた。皿がレーンを滑るスゥ……という微かな摩擦音。それは、捜査が空転し、同じ場所をぐるぐると回っている彼女の焦燥感と、不気味に共鳴した。
——カチャ。
エルナは、目の前の皿を取った。冷たい酢飯と、艶やかなマグロ。
——パクッ……。
噛みしめた瞬間、冷気が口内に広がる。だが、その味は今の彼女の脳には届かない。彼女の耳が捉えているのは、周囲で繰り広げられる無意味な音の断片だ。
——パチン、パチン。
誰かがおしぼりの袋を叩く、空虚な破裂音。
——カタカタ。
空になった皿を積み上げる音。
その日常のノイズの中に、あの日、路地裏で聞いたフランクフルトが落ちた「ペチャッ」という粘り気のある音が、不快なフラッシュバックとして混ざり込む。
(……何かが足りない。あの日、あの場所で鳴っていたはずの、もう一つの音が、どうしても思い出せないのだ)
エルナは、粉茶を入れた湯呑みに熱湯を注いだ。
——ドボドボドボ……。
勢いよく注がれる湯の音。その振動が、彼女の指先に伝わる。その時、店内のテレビから流れるニュースの音が、彼女の耳の奥にある鍵を叩いた。
『——新橋での事件について、警察は引き続き犯人の行方を……』
——カラン……。
エルナの手が止まった。隣の客が、醤油皿に落とした箸の音。その僅かな「硬質の衝撃音」が、二日前の現場で、排水溝の蓋がカタンと鳴った時の「重さ」と、パズルのピースのように合致した。
(……そうだ。あの音は、犯人の体重ではない。犯人が、何かを『置いた』音だ。あの現場には、フランクフルト以外にも置かれたものがあった!)
金属製の、重く冷たい何か。それが、排水溝の鉄格子の隙間に噛み合った時の、あの微かな反響音。
「ハンス……!」
エルナは、回るレーンの向こう側、見えない相棒に呼びかけるように呟いた。彼女の目は、もはや虚空を彷徨ってはいなかった。皿を積み上げるカチャッという音が、今は騎士が鎧を纏う際の、確かな決意の音に聞こえた。
「会計だ」
彼女は立ち上がり、積み上がった数枚の皿を指さした。レジで支払う硬貨の音。
——チャリン。
店を出ると、新橋の駅前には相変わらずのゴォォォ……という地鳴りのような騒音が渦巻いている。だが、今のエルナには、そのノイズの中から「真実」だけを抜き出す準備ができていた。
「四月三日。……回る皿の音に教えられたぞ。事件は、まだ終わっていない。むしろ、ここからが逆襲だ」
新橋の夕暮れ。姫騎士探偵の軍靴が、再びアスファルトをコツ、コツと、鋭いリズムで叩き始めた。停滞の時は終わり、真実へと至る足音が、今、力強く響き始めていた。
駅のホームへと続く階段を駆け上がる、自身の荒い息遣いを、勝利への秒読み(カウントダウン)として聴きながら。




