第12話:紅蓮の灯火(サイレン)と、唐揚げの鉄槌
第12話:紅蓮の灯火と、唐揚げの鉄槌
二〇二六年四月一日。
春の夜風が新橋の雑居ビルの間を鋭く吹き抜ける。エルナの懐で、支給されたスマートフォンが未知の獣の如き電子音を奏でた。
「……山本殿か」
画面に表示されたのは『山本』の二文字。だが、通話ボタンを押した瞬間に鼓膜を震わせたのは、いつもの穏やかな世話人の声ではなかった。
『——新橋四丁目、路地裏の雑居ビルだ。至急、現場に来てくれ』
「山本殿? その声、何やら……」
『……警視庁の山本だ。エルナ、探偵業を始めると言ったな。お前のその耳、今すぐここで使ってもらう』
警視庁、警部。
その肩書きが、無機質な電波を通じてエルナの脳内に突き刺さった。彼女が善良な世話人だと思っていた男は、この国の治安を司る、厳格なる秩序の守護者だったのだ。
「承知した、山本警部。……騎士の剣が必要な現場なのだな?」
エルナはアパートを飛び出した。
だが、戦場へ向かう前に彼女が立ち寄ったのは、深夜の街で不夜城の如く光を放つコンビニのホットスナックコーナーだった。
「これだ。この黄金の槍を一本」
——ガサガサ……。
油取り紙が鳴らす、乾いた音。店員から受け取ったのは、串に刺さった四つの唐揚げという名の肉塊。それは過酷な捜査を前に、己の闘争心を昂らせるための携帯食であった。
「ハンス、私は先行する。お前はアパートで情報の解析に備えろ」
「御意。……姫、その串が『最後の一撃』の糧となりますよう」
ハンスの送り出す声を受け、エルナは新橋の夜を駆ける。軍靴がアスファルトをコツ、コツと叩く鋭いリズム。その一方で、彼女の口元では別の音が響いていた。
——ザクッ……。
激しく、そして野性的な断裂音。冷たい夜気に晒されながら、エルナは唐揚げの衣を噛み砕く。
——パリッ。
揚げたての衣が弾ける響き。続いて、閉じ込められていた肉汁が溢れ出し、喉を鳴らすゴクリという重厚な嚥下音。
(……美味い。この脂の熱量、この醤油の刺激。これが私の血管を駆け巡り、騎士としての感覚を研ぎ澄ませていく)
その時。遠くからウゥゥゥゥ……という、空気を切り裂くようなサイレンの音が近づいてきた。
それはかつて祖国で聞いた敵襲の合図に似て、だが決定的に異なる。この国のサイレンは、誰かを救うために闇を切り拓く「光の咆哮」だ。
——ザリッ、ザリッ……。
唐揚げの最後の一片を噛みしめる音と、近づくパトカーの重低音。二つの異なる音が、エルナの中で一つの戦闘態勢(旋律)へと収束していく。
現場に到着すると、そこはすでに規制線という名の「黄色い結界」によって隔離されていた。赤と青のライトが交互に点滅し、周囲の壁を不気味な紫色に染めている。
「遅かったな、探偵」
規制線をくぐり、一人の男が歩み寄る。山本警部だ。
スーツの襟を立て、鋭い眼光を放つその姿に、もはや人の良さそうな中年男の面影はない。
「……山本警部、ではないな。山本卿と呼ぶべきか?」
「よせ。……それより、聴いてくれ。この現場の音を、お前ならどう解析する?」
エルナは手にした串をゴミ箱に投げ入れた。
——カラン。
乾いた音が響く。彼女は目を閉じ、周囲のノイズを遮断した。現場となった路地裏には、冷徹な静寂が横たわっていた。
——パシャッ、パシャッ。
鑑識官が焚くフラッシュの無機質な破裂音。
——遠くで酔客が笑う、場違いな歓声。
エルナの耳は、そのノイズの隙間に潜む「不純な不協和音」を捉えた。
「……聴こえるぞ、警部。この場所には、まだ恐怖の残響がこびりついている」
「……ほう」
「犯人は逃げる際に足音を殺したつもりだろうが、この排水溝の蓋を、一箇所だけカタンと鳴らしている。……その音の重み、沈み込みの深さ。犯人はかなりの重量物を背負っていたはずだ。それも、ただの荷物ではない。……生きている人間の、不規則な呼吸の揺らぎがその衝撃音に混じっている」
エルナの瞳に、騎士としての鋭い光が宿る。
「行こう、山本警部。この不協和音の主を、私の耳と、この国の法で断罪するために」
夕闇の新橋。唐揚げの香りを微かに残しながら、姫騎士探偵エルナは、初めての事件という名の深淵へと力強く踏み出した。
——コツ、コツ、コツ……。
その規則正しい足音は、闇に潜む悪意を追い詰める、処刑のカウントダウンのように響いていた。




