第2話 存在してはならないバグ、あるいは最強の古竜
王都の城壁を出ると、そこには歪な世界が広がっていた。
夜空を見上げれば、テクスチャの貼り遅れでカクカクとした動きを見せる雲が流れ、足元の街道はポリゴンの継ぎ目が甘く、時折、小石が地面をすり抜けて裏側へと落下していくのが見える。
「……ひどいな。市街地エリアから離れると、ここまで描画が雑になるのか」
俺、アルト・ヴィンセントは、愛想の尽きた勇者パーティとの決別を果たし、一人で夜の街道を歩いていた。
行き先は決まっている。先ほどの戦闘中、視界の隅に引っかかり続けていた『特大のエラー反応』の場所だ。それは俺たちが攻略していたダンジョンのさらに深層、あるいは未実装エリアとも言うべき場所から発せられていた。
通常なら、追放されたばかりの非戦闘員(表向きは)が、深夜にモンスターの徘徊するエリアへ向かうなど自殺行為だ。だが、今の俺にとって、この世界で最も安全な場所は、皮肉にも俺の半径5メートル以内だった。
ガサリ、と街道脇の茂みが揺れる。
飛び出してきたのは、飢えた狼のような魔物『キラー・ウルフ』の群れだ。赤い瞳をギラつかせ、涎を垂らしながら俺を取り囲む。その数、十体以上。
普通の冒険者なら悲鳴を上げて逃げ出す場面だろう。
だが、俺は歩みを止めず、ただ冷ややかな視線を先頭の狼に向けた。
「邪魔だ。当たり判定、削除」
俺が指先を軽く横に振る。
ただそれだけの動作で、飛びかかろうとした狼たちの体が、俺の体を幽霊のようにすり抜けた。
実体を伴わない幻影になったわけではない。俺に対する『接触判定』のフラグだけを世界から消去したのだ。牙も爪も、俺という存在を認識できず、空しく空を切る。
「ギャン!?」
「グルル……?」
狼たちは混乱し、自分たちの攻撃が当たらないことに恐怖を覚え始めたようだ。物理法則を無視した現象は、本能で生きる獣にとって天敵以上の恐怖となる。
俺は怯える狼たちを無視して、そのまま歩き続ける。一匹が背後から喉笛に噛み付こうとしたが、俺の首筋に触れた瞬間、狼の顎がバグったように高速で振動し、次の瞬間には物理演算の反発係数が暴走して、遥か彼方の空へと弾き飛ばされていった。
星になった狼を見送り、俺は小さく息を吐く。
「……楽だな」
勇者レオンたちといた時は、こんな風に自由に力を使うことはできなかった。
彼らの『英雄としての見栄』を守るために、わざわざ剣が当たったようなエフェクトを残し、魔法が効いたような演出を施し、敵の攻撃をギリギリで受け止めさせる調整をしていたのだ。
それが今はどうだ。誰の目も気にせず、最短かつ最適解で障害を排除できる。
俺は初めて、この呪われた『神の目』と『修正能力』を持っていて良かったと思ったかもしれない。
目的地は、ダンジョンの正規ルートを外れた先にある『奈落の谷』と呼ばれる場所だった。
そこは、開発者が地形を作るのを途中で放棄したかのような、断崖絶壁と無機質な岩肌が続くエリアだ。冒険者ギルドからは「立ち入り禁止区域」に指定されているが、それは強力な魔物がいるからではない。「入ったら二度と戻れない」という謎の失踪事件が多発しているからだ。
戻れないのも無理はない。
俺の目には見えている。あそこは空間座標の定義が狂っており、一度足を踏み入れると無限ループする処理が埋め込まれているのだ。
「if文の分岐ミスか……。雑な仕事しやがって」
俺は谷の入り口に張り巡らされた『見えない壁』に手を触れ、その構造を解析する。
無限ループのトリガーを特定し、条件式を書き換えてループを脱出するバイパス(抜け道)を作成する。
数秒の作業で空間が揺らぎ、俺の前だけに一本の道が開かれた。
足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
重い。鉛のような重圧が肌にまとわりつく。
そして、耳をつんざくようなノイズが脳内に響き渡った。
『キ……ァァァ……ガガッ……!』
それは、生き物の悲鳴と、機械の故障音が混ざり合ったような、おぞましい音だった。
視界が一面、真っ赤な警告色で埋め尽くされる。
『Fatal Error』
『Memory Leak Detected』
『System Resource Exhausted』
この空間の中心に、世界そのものをクラッシュさせかねない『何か』がいる。
俺はその中心へと急いだ。
岩場を越え、バグで変色した紫色の川を渡り、谷の最深部にたどり着く。
そこで俺が見たものは、この世の地獄だった。
空間が、砕け散っていた。
鏡が割れるように空間そのものに亀裂が走り、その裂け目から『虚無』の黒い色が漏れ出している。
その中心に、一人の少女がいた。
長い銀髪は輝くように美しいが、その体は絶え間なく明滅し、ノイズに覆われている。
ある時は右腕が異常に肥大化し、ある時は足が透けて消え、ある時は顔のパーツが福笑いのようにズレる。
彼女が存在すること自体が、この世界の容量を超えているのだ。
世界というシステムが、彼女を「異物」として認識し、全力で消去しようとしている。だが、彼女自身の強大なエネルギーがそれに抵抗し、結果として永遠に続く「破壊」と「再生」の無限地獄に囚われていた。
「う、あ……あぁぁぁ……!」
少女の口から漏れるのは、言葉にならない苦悶の声。
その声すらも、音割れを起こして不快なノイズとなっている。
どれほどの痛みだろうか。
全身の細胞が1秒間に数千回も分解され、無理やり再構築される苦痛。それが数百年、数千年と続いているとしたら。
「……よく精神が崩壊しなかったな」
いや、もう壊れているのかもしれない。
俺は恐怖よりも、技術者としての義憤に駆られた。
これはバグだ。あってはならない、残酷な設計ミスだ。こんなものを放置して、何が「美しい世界」だ。
勇者たちが酒を飲んで笑っている裏で、こんなエラーが放置されているなんて許されていいはずがない。
俺は迷わず、ノイズの嵐の中へと足を踏み入れた。
バチバチッ!
近寄るだけで、俺の体にもダメージ判定が発生する。通常の人間なら即死するレベルの魔力嵐だ。
だが、俺は自分自身の耐久値を『固定』し、強引に歩を進める。
少女の目の前までたどり着き、膝をつく。
彼女が、うつろな瞳で俺を見た。その瞳は、青と金色のオッドアイだったが、今は色が混ざり合って混沌とした色をしていた。
「……コロ……シ……テ……」
途切れ途切れの声。
彼女は俺に救いを求めたのではない。終わらせてくれと懇願したのだ。
あまりの痛みに、死ぬことだけが唯一の救いになっている。
俺は彼女の、ノイズでぐちゃぐちゃになった頬に手を伸ばした。
「断る」
俺は短く告げる。
「俺は破壊屋じゃない。修正屋だ」
指先が彼女の肌に触れる。
その瞬間、膨大な情報量が俺の脳内に流れ込んできた。
『種族:古竜』
『個体名:ノエル』
『ステータス:計測不能(Overflow)』
やはりか。彼女は伝説上の存在とされる古竜だ。そのあまりに強大すぎる力、高すぎるステータスが、この貧弱な世界の器に入り切らず、あふれ出している。
例えるなら、最新の高画質3Dモデルを、数世代前の旧式ゲーム機で無理やり動かそうとしているようなものだ。
処理落ちし、バグり、熱暴走を起こすのは当然だ。
「じっとしてろ。今、お前のコードを書き換える」
俺は両手を広げ、彼女を取り巻く膨大なソースコードの海に没入した。
視界から現実の風景が消え、緑色の文字列だけが流れる空間になる。
凄まじいスパゲッティコードだ。絡まり合い、矛盾し、無駄な処理が山のようにある。
これを一つ一つ解きほぐし、最適化していく。
『竜の心臓の出力係数を調整。圧縮アルゴリズムを適用』
『魔力回路のバイパスを作成。余剰エネルギーを亜空間へ排気するように変更』
『物理的干渉力を制限解除ではなく、可変式に再定義』
指先が燃えるように熱い。脳味噌が沸騰しそうだ。
勇者たちの剣を直すのとはわけが違う。これは、神が作った生命の設計図そのものを書き換える作業だ。一つ間違えば、俺もろともデータが消滅する。
だが、不思議と怖くはなかった。
むしろ、楽しかった。
目の前の難解なバグが、俺の手によって美しい秩序あるコードへと生まれ変わっていく。その過程に、俺は得も言われぬ快感を覚えていた。
「そこだッ!」
最後のエンターキーを叩き込む。
修正パッチ、適用完了(Apply)。
キィィィィン……。
甲高い音が響き、少女を包んでいた黒いノイズが霧散した。
世界が震えるのをやめる。
歪んでいた空間が正常な座標に戻り、明滅していた彼女の体が、確かな輪郭を取り戻していく。
輝くような銀髪がさらりと流れ、透き通るような白い肌が現れる。
背中からは、蝙蝠のような小さな翼ではなく、宝石で作られたかのような美しい竜の翼が広がり、そして光の粒子となって彼女の背中に吸い込まれていった(収納モードへの移行も成功だ)。
少女――ノエルは、大きく息を吸い込んだ。
空気が肺に入り、血液が巡り、心臓が脈打つ。
そこに「痛み」はもうない。
「あ……?」
ノエルは自分の手を見つめ、そっと頬に触れた。
痛くない。体が千切れない。
世界が、自分を受け入れている。
数千年ぶりに訪れた静寂と安寧。彼女は信じられないといった表情で、涙を瞳に溜めた。
「終わったぞ。まだ少し違和感があるかもしれないが、じきに慣れる」
俺は額の汗を拭いながら立ち上がる。
さすがに疲れた。魔力なんてものは持っていないが、精神力の消耗が激しい。
もう帰って泥のように眠りたい気分だった。
だが、空気を読まない邪魔者が現れるのは、いつだってこういうタイミングだ。
ズズズズズ……ッ!
地響きと共に、谷の岩壁が崩れ落ちた。
現れたのは、全身が岩と溶岩で構成された巨大な多頭蛇、『ヴォルカニック・ハイドラ』だ。
この谷の主だろうか。先程までの空間異常が消えたことで、餌の匂いを嗅ぎつけて出てきたらしい。
「グシャァァァァァッ!」
ハイドラの五つの首が一斉に咆哮し、灼熱のブレスを吐き出そうと鎌首をもたげる。
俺は舌打ちした。
今の俺は精神的に疲弊しきっている。修正能力を使う余裕は残っているが、あんな巨大な質量を相手にするのは面倒だ。
逃げる算段をつけようとした、その時。
ドンッ!
目の前の地面が爆ぜた。
俺とハイドラの間に、銀色の影が割り込んでいた。
さっきまで蹲っていた少女、ノエルだ。
彼女は俺を背に庇うように立ち、ハイドラを見上げている。その背中は華奢で、守ってやらなければ折れてしまいそうだ。
だが、次の瞬間、彼女が放った言葉は、その印象を覆すほど冷徹だった。
「……不愉快」
ノエルが片手を無造作に振るう。
魔法の詠唱も、予備動作もない。
ただ、虫を払うような動作。
それだけで、凄まじい暴風が発生した。
ドパァァァンッ!
「え?」
俺は目を疑った。
暴風が通り過ぎた後、そこには何もなかったからだ。
ハイドラの巨体も、背後の岩山も、空に浮かんでいた雲さえも。
一直線に、地平線の彼方まで地形が変わっていた。
ハイドラは肉片すら残さず、原子レベルで消滅させられたのだ。
これが、『古竜』の本来の力。バグが直ったことで、彼女は正真正銘、世界最強の生物として覚醒したのだ。
「……やりすぎだろ」
俺が呆然と呟くと、ノエルがビクリと肩を震わせた。
彼女は恐る恐る振り返る。
その表情は、先程の冷徹さはどこへやら、叱られた子供のように怯えていた。
「ご、ごめんなさい……! 力加減がまだ分からなくて……あの、私、あなたの邪魔を……?」
「いや、助かったよ。ありがとう」
俺が素直に礼を言うと、彼女の顔がパッと輝いた。
まるで花が咲いたような笑顔だ。
彼女はおずおずと俺に近づき、そして――
ドサリ、と両膝をついて頭を垂れた。
最敬礼の姿勢だ。
「あの方……いえ、我が主」
凛とした声が響く。
「永きに渡る呪縛から、この身を解き放ってくださった御恩、魂に刻み込みました。この命、この力、すべては貴方様のために」
彼女は顔を上げ、潤んだオッドアイで俺を真っ直ぐに見つめる。
そこにあるのは、単なる感謝ではない。
崇拝、畏敬、そして狂信に近いほどの情熱。
「私の名はノエル。古き竜の血を引く者。今この時より、貴方様を私の『神』としてお仕えいたします。どうか、お傍に置くことをお許しください」
神、か。
勇者パーティでは「寄生虫」と呼ばれ、「無能」と蔑まれていた俺が。
ここでは神扱いとは。
その落差に、俺は思わず苦笑した。
だが、悪い気分ではなかった。
少なくとも、彼女の言葉には嘘がない。俺の目には、彼女の頭上に『Status: Affection Max(好感度:上限突破)』という隠しパラメータが見えていたからだ。
「……神様って柄じゃないが、まあいい。俺も一人じゃ手が足りないと思ってたところだ」
俺は彼女の手を取り、立たせる。
その手は小さくて温かかった。
「よろしくな、ノエル。俺の名前はアルトだ」
「はいっ! アルト様!」
ノエルは俺の手を両手で包み込み、頬ずりしそうな勢いで喜んでいる。
その背後で、彼女の尻尾(隠しきれていない)がブンブンと振られているのが見えた。
なんだか、とんでもないものを拾ってしまった気がする。
だが、これなら。
この世界最強のバグキャラ(古竜)と、この世界を書き換える管理者である俺が組めば。
「勇者レオン……お前たちがこれから味わう『絶望』、少しは楽しみにしておけよ」
俺は王都の方角を見やり、ニヤリと笑った。
勇者たちの装備に仕込んでおいた『時限式の崩壊タイマー』が作動するまで、あと数時間。
俺たちの快進撃と、彼らの転落劇は、同時に幕を開けるのだ。
◇
その頃、王都の宿屋。
上機嫌で眠りについていた勇者レオンは、激しい悪寒に襲われて目を覚ました。
「な、なんだ……? 寒い……?」
布団を被り直そうとして、彼は違和感に気づく。
枕元に置いてあった愛剣『聖剣エクスカリバー(仮)』の刀身に、見たこともない黒いヒビが入っていることに。
それはまるで、世界の終わりのカウントダウンのように、ピキピキと音を立てて広がり始めていた。




