第1話 世界はバグで満ちている
視界が真っ赤に染まっていた。
それは血の色ではない。俺、アルト・ヴィンセントの目にだけ映る、無数の『エラーコード』の警告色だ。
「グオオオオオオオッ!」
地響きのような咆哮とともに、ダンジョンの天井を擦るほどの巨体を誇る『アビス・ギガント』が棍棒を振り上げる。その一撃は、通常の物理法則に従えば、前衛に立つ勇者レオンの頭蓋を容易く粉砕する質量と速度を持っていた。
だが、俺には見えていた。
その棍棒の振り下ろされる軌道上に、空間の座標ズレを示す『Null Reference Exception』の文字列が浮かんでいるのを。
このままでは、棍棒は物理判定をすり抜け、レオンの聖剣ごと彼を肉塊に変えるだろう。防御力など関係ない。この世界では、バグこそが最強の攻撃であり、回避不能の死神なのだ。
「――チッ、処理落ちしてんじゃねえよクソ世界」
俺は毒づきながら、誰も気づかない速度で虚空に指を走らせた。
傍から見れば、戦場の後方で奇妙な手遊びをしているようにしか見えないだろう。だが、俺の指先は世界を構成するソースコードを弾き、瞬時に修正パッチを生成していた。
『対象:アビス・ギガントの棍棒。座標軸Zを修正。当たり判定を正規化。ついでに、レオンの聖剣の耐久値を一時的に固定(Lock)』
エンターキーを叩くイメージで、指先を強く弾く。
その瞬間、世界から不協和音が消えた。
ドゴオオオオオンッ!!
凄まじい衝撃音が洞窟内に響き渡る。
本来なら砕け散っていたはずの勇者レオンの剣が、巨人の棍棒を真正面から受け止めていた。剣身からは火花が散り、衝撃波が周囲の岩壁を削り取る。
「ハッ! 軽いなァ! この程度の剛力、俺の『聖光気』の前では無意味だぜ!」
レオンが得意げに叫び、輝く剣を一閃させる。
実際には、俺が剣の硬度パラメータを『破壊不能(Indestructible)』に書き換えていなければ、彼の剣は最初の接触で飴細工のようにひしゃげていただろう。だが、そんな真実を知る由もないレオンは、あたかも自分の実力で攻撃を防いだかのように口角を吊り上げた。
「いくぞ、賢者ソフィア! 聖女マリア! 畳み掛けるぞ!」
「ええ、任せて! 『爆炎の槍』!」
後衛の賢者ソフィアが杖を掲げる。
彼女の詠唱に合わせて、紅蓮の炎が螺旋を描いて収束していく。だが、俺の目は再び警告を捉えた。
魔力回路の記述ミス。
この世界の大気中のマナ濃度が急上昇しているせいで、彼女の魔法術式がオーバーフローを起こしかけている。このまま発射すれば、魔法は標的に向かわず、暴発して我々パーティ全員を黒焦げにするだろう。
「……手間をかけさせやがって」
俺は再び虚空をタイプする。
ソフィアの杖の先端に発生しているエラーログ『Stack Overflow』を視認し、余剰な魔力を強制的に排気するサブルーチンを割り込ませる。さらに、炎のベクトル計算が狂っていたのを、正確に巨人の眉間へと誘導するように書き換えた。
ズドオオオオッ!
「キャハハッ! 見た!? 私の魔法、今日はいつもよりキレがいいかも!」
「さすがですソフィア様! さあ、皆様の傷は私が癒やしますわ! 『聖なる抱擁』!」
続いて聖女マリアが回復魔法を展開する。
これもまた、バグの温床だった。回復量の計算式において、回復対象の『現在HP』と『最大HP』の参照先が逆転している。このまま発動すれば、レオンの傷が癒えるどころか、回復量が反転して即死級のダメージが入るところだ。
俺は眉間の皺を深くしながら、リアルタイムでその数式を書き換え、正常な回復魔法として成立させた。
温かな光がレオンを包み、擦り傷ひとつない状態へと戻していく。
「完璧だ! 俺たち『光の剣』に死角なし!」
レオンが叫び、必殺の一撃を巨人の胸板に突き刺した。
巨人は断末魔を上げることもできず、光の粒子となって崩れ去っていく。
ファンファーレのような達成感が漂う中、俺はひとり、額に浮かんだ脂汗を拭った。
指先が熱い。脳が焼き切れそうだ。
たった数分の戦闘の間に、俺は実に四百箇所以上の『世界のバグ』を修正していた。地形の判定抜け、重力係数のゆらぎ、スキルの計算ミス、装備の耐久度エラー。
それら全てを、俺一人が影で支えている。
この『光の剣』がS級パーティとして名を馳せているのは、彼らが特別強いからではない。俺という『修正術師』が、彼らにとって都合のいいように世界を書き換えているからに過ぎないのだ。
「ふぅ……終わったか」
大きく息を吐き、痺れる手をぶらぶらと振る。
だが、そんな俺をねぎらう言葉は、いつものように一つもなかった。
「おい、アルト」
ドサリ、と巨人のドロップアイテムである巨大な牙を足元に投げ捨てられた。
見上げると、戦闘の高揚感を冷徹な侮蔑の色に変えた勇者レオンが、仁王立ちで俺を見下ろしていた。
隣には、賢者ソフィアと聖女マリアも並んでいる。彼女たちの目にも、俺に対する感謝の色はなく、あるのはただ、汚いものを見るような眼差しだけだった。
「拾えよ。お前の仕事はそれ(・・)くらいなんだからな」
「……ああ、そうだな。分かったよ」
俺は反論を飲み込み、牙を拾い上げてマジックバッグに収納する。
ここで「お前らが生きているのは俺のおかげだ」と言ったところで、彼らは理解しないだろう。彼らにとって世界は「正常に動いて当たり前」のものであり、剣が折れたり魔法が暴発したりするのは「あり得ないこと」なのだ。
その「当たり前」を維持するために、どれだけの労力が払われているかも知らずに。
「帰還の魔法陣が出ましたわ。早く戻りましょう。汗をかいて気持ち悪いですもの」
「そうだな。今夜は祝勝会だ。特上の酒を開けるぞ!」
「やったぁ! レオンかっこよかったよー!」
三人は楽しげに談笑しながら、俺を置き去りにして魔法陣へと歩いていく。
俺はその背中を見つめながら、胸の奥に黒い澱のようなものが溜まっていくのを感じていた。
もう限界かもしれない。
いつか、このバグだらけの世界が崩壊する前に、俺の精神の方がエラーを起こしてしまいそうだ。
◇
王都に戻り、ギルド併設の酒場の個室に入った直後のことだった。
祝杯を挙げる前に、レオンがテーブルに足を投げ出し、座っている俺に向かって指を突きつけた。
「アルト。単刀直入に言う」
酒場の喧騒が、分厚い扉の向こうでくぐもって聞こえる。
室内の空気は、先程までの勝利の余韻とは程遠い、冷たく張り詰めたものに変わっていた。
ソフィアは爪の手入れをしながら興味なさそうにそっぽを向き、マリアは憐れむような、それでいて嘲るような笑みを浮かべている。
来るか、と思った。
薄々は感づいていた。最近の彼らの態度は、明らかに俺を排除しようとする動きを見せていたからだ。
「お前、今日でクビな」
予想通りの言葉だった。
驚きよりも、「やっぱりか」という納得の方が先に立つ。
俺は冷静さを保ちながら、目の前の勇者に問いかけた。
「……理由は?」
「理由? お前、本気で聞いてんのか?」
レオンは呆れたように鼻を鳴らし、周囲の二人に同意を求めるように視線を向けた。
それに答えるように、賢者ソフィアが口を開く。
「あのねえ、アルト。あなた、今日の戦闘でも何してた? ずっと後ろで指を動かしてただけじゃない。気持ち悪いのよ、あれ」
「そうそう。何かこう、空中に絵を描くみたいにして。呪いでもかけてるんじゃないかって、マリアとも話してたんだぜ?」
「ええ、怖いですわ。神聖な戦いの場で、あんなふざけた真似をされるなんて。それに、あなたの職業は一応『支援術師』ってことになってますけど、バフの一つもかけたことありませんよね?」
マリアの言葉に、俺は思わず失笑しそうになった。
バフ?
お前たちのステータス異常耐性が常に100%で、クリティカル率が50%を超え、回避率が異常に高いのは、俺が常時パラメータを固定化しているからだ。通常のバフ魔法なんて目じゃないレベルの神業を行使しているというのに、彼らの目には「何もしていない」と映っているらしい。
いや、無理もないか。
俺の行使する『修正術』は、世界の理そのものに干渉する力だ。魔力光も詠唱も伴わない、純粋な法則の書き換え。凡人には視認すらできない。
「俺が何もしていない、か。本気でそう思ってるのか?」
「ああ、思ってるぜ。つーか、事実だろ? 荷物持ちなら安い奴隷で十分だし、雑用係にS級パーティの報酬を山分けするのは、コストパフォーマンスが悪すぎるんだよ」
レオンはテーブルの上のワインボトルを乱暴に掴み、グラスに注ぐ。
「それにな、もう代わりは見つけてあるんだ。おい、入れよ」
レオンが扉に向かって声をかけると、ガチャリと扉が開き、一人の華やかな女性が入ってきた。
透き通るような金髪に、豊満な肢体を際立たせる露出度の高い軽鎧。腰には二本の細剣を携えている。
彼女の顔には見覚えがあった。最近売り出し中のアイドル剣士、リリアだ。実力はそこそこだが、その美貌と愛想の良さで、貴族や民衆からの人気が絶大だと聞く。
「初めましてぇ! 『光の剣』に入れてもらえるなんて夢みたいですぅ! 足手まといにならないように頑張りますねっ☆」
リリアはあざといポーズでウィンクを飛ばす。
レオンたちの顔が、一瞬でデレデレとしたものに崩れた。
「おうおう、リリアちゃんは謙虚だなァ。どこぞの無能とは大違いだ」
「私、魔法剣も使えるんですぅ。だから、後ろで突っ立ってるだけの人よりは、ずっとお役に立てると思いますよぉ?」
リリアがチラリと俺を見る。その瞳には、明確な侮蔑と優越感があった。
彼女もまた、俺のことを「寄生虫」だと思っているのだろう。世間の評価などそんなものだ。
「というわけだ、アルト。お前の分の報酬は、今後リリアちゃんの契約金と、俺たちの装備のメンテナンス費に回すことにした。文句ねえよな?」
レオンがニヤニヤと笑いながら告げる。
メンテナンス費、か。
皮肉な話だ。俺がいなくなれば、彼らの装備はメンテナンスどころか、一度の使用でスクラップになるだろうに。
俺の中で、何かがプツリと切れた。
怒りではない。諦めだ。
これほどまでに無知で、傲慢で、救いようのない連中に、俺はこれまで命を削って尽くしてきたのか。
そう思うと、急速に彼らへの興味が失せていくのを感じた。
「……分かった」
俺は静かに席を立つ。
テーブルに置いてあったパーティ証であるバッジを取り外し、コトリと音を立ててレオンの前に置いた。
「え、それだけ? 泣いて縋ったりしないの?」
ソフィアが拍子抜けしたような声を出す。
俺は彼女を一瞥もしないまま、淡々と言葉を紡いだ。
「ああ。お前らがそう決めたなら、俺が言うことは何もない。ただ、一つだけ忠告しておく」
俺は扉に手をかけ、最後に一度だけ振り返った。
その視線の先には、新しい仲間を囲んで祝杯をあげようとしている四人の姿がある。
「この世界は、お前らが思っているほど頑丈じゃない。俺がいなくなった瞬間から、まともに『歩く』ことすら難しくなると思え」
「はっ? 何言ってんだ、負け惜しみかよダサいなァ!」
「きゃはは! 意味わかんない! 自分がいないと世界が回らないとでも思ってるの?」
「哀れですわね……。早く出ていってくださいな、空気が澱みますわ」
嘲笑の嵐。
馬鹿にするような笑い声が、背中に突き刺さる。
だが、俺の心は不思議なほど静かだった。
彼らの笑顔の上に、赤黒い『Fatal Error』の予兆が見え隠れしているのが分かっていたからだ。
「忠告はしたからな。……じゃあな、勇者様御一行」
俺は部屋を出て、扉を閉めた。
分厚い扉が閉まる瞬間、彼らの高笑いが途切れた。
それと同時に、俺は今まで無意識に維持し続けていた、ある常駐プログラム(バックグラウンド・プロセス)を停止させた。
『プロセス終了:[Party_Member_Protection.exe]』
『プロセス終了:[Weapon_Durability_Fix.exe]』
『プロセス終了:[Magic_Safety_Control.exe]』
『プロセス終了:[World_Physics_Local_Patch_Ver.4521.exe]』
俺の脳内から、重苦しい負荷が消えていく。
肩が軽くなる。視界がクリアになる。
ああ、なんて清々しいんだろう。
これまで俺は、彼らが一歩歩くごとに発生する地面の判定抜けを修正し、呼吸をするたびに発生する空気抵抗のバグを調整し、彼らが生きていること自体が引き起こす世界への負荷を肩代わりしていたのだ。
それが全てなくなった今、俺は自由だった。
廊下を歩きながら、俺は小さく呟いた。
「せいぜい頑張れよ。明日の朝、靴紐を結ぼうとして指が千切れないといいけどな」
酒場の外に出ると、夜風が心地よかった。
王都の空には、美しい二つの月が浮かんでいる。
だが、俺の目にはその片方の月が、テクスチャの貼り遅れで四角いポリゴン状に欠けているのが見えていた。
この世界は壊れている。
神様が作ったのか、何者かがプログラムしたのかは知らないが、未完成もいいところだ。
だが、もう俺が彼らのためにその不具合を直してやる義理はない。
俺は路地裏の暗がりへと足を向けた。
さて、これからは自分のためにこの力を使おう。
まずは、さっきの戦闘で拾ったエラーデータの中に混じっていた、奇妙な『ノイズ』の発生源を確かめに行くとするか。
あのダンジョンの奥底、アビス・ギガントよりもさらに深い場所に、世界そのものから拒絶されているような、強烈で悲痛な『バグの塊』を感じていたのだ。
もしかしたら、そこには俺と同じように、この歪な世界に苦しめられている誰かがいるのかもしれない。
そんな予感を抱きながら、俺は王都の喧騒を背に、夜の闇へと溶け込んでいった。
一方その頃。
酒場の個室では、乾杯のグラスを合わせようとしたレオンの手から、突如としてグラスがすり抜けた。
パリン、と床で割れる音。
だが、おかしい。
グラスは手から滑り落ちたのではない。指がグラスの物質を透過し、掴む判定が消失したのだ。
「あ? なんだこれ、手が滑ったか?」
「もう、レオンったら飲みすぎじゃないの?」
「いや、なんか変だぞ……。おい、ワイン拭く布とってくれ」
マリアが布巾を手に取り、こぼれた赤ワインを拭こうとする。
しかし。
布巾はワインを吸い込むことなく、まるで油と水のように弾き、ワインはテーブルの木目を無視して、不自然な挙動で宙に浮き始めた。
「え……? 何これ、気持ち悪い……」
「おい、どうなってんだ?」
彼らはまだ気づいていない。
それが、終わりの始まりであることを。
これまで当たり前に享受していた『物理法則』という名の恩恵が、俺という要石を失って崩壊し始めたことを。
個室の中に、微かな、しかし不気味な軋み音が響き始めていた。




