第9話 亀裂の音、隣の距離
……ぱきり。
乾いた亀裂の残響が、まだ耳の奥に貼り付いている。扉を閉めたはずの小礼拝室まで、回廊の冷えが追いすがってきた。
「誰にも渡さない」
その言葉だけが近すぎて、息が止まる。鎖は外れたのに、胸の奥が勝手に縮む。私は反射で聖痕の手を隠し、指先を握り込んだ。
さっき見た、バルドの腰の紋章石。細い亀裂に灯りが引っかかり、彼の笑みだけが崩れた。あの音は石の悲鳴だったのに、私の身体は彼の声を檻の音に変えてしまう。
小礼拝室は、祈祷台と小窓、それから椅子が2脚だけの狭さだった。薄い灯りが壁の凹凸を撫で、床の石目にはさっきの血の匂いが残っている気がする。
ミロが扉の内側で深呼吸し、紙束の角をそろえた。手の震えをごまかすみたいに、やたら真剣だ。インクの染みた指で、面会簿の表紙を撫でる。
「椅子は……2脚。足ります。足りますね」
足りないのは、たぶん心の余裕だ。
扉の外で、金属がかすかに鳴った。鍵束みたいな、乾いた音。誰かが通るだけかもしれないのに、背中が熱くなる。
私は目を逸らし、小窓の暗さを見つめた。逃げ道は見えない。見えないほうが、今は助かる。
ルシアンは私の正面に立たなかった。祈祷台の横、壁に寄りすぎない場所で止まる。近いのに、近づかない。触れそうで触れない距離が、逆に怖い。
私は喉の奥を押し広げるみたいに息を吸った。
「……さっきのは」
声が細くなる。言い直しても、強くはならない。
「誰にも渡さない、って」
鎖の音に聞こえた。私の身体は、その音を覚えている。家が私を連れ戻すとき、いつも優しい言葉を使ったから。
ルシアンの眉が、ほんの少しだけ動いた。
「悪い」
短い謝罪のあと、彼は言葉を削るみたいに続ける。
「奪われるのが、嫌だった」
そのまま言い切ったら檻になるのを、彼は分かっている顔だった。
だから私は、確かめる。
「……それは、命令ですか」
言った瞬間、喉の奥が痛い。私はいつも、命令に返事をするための喉で生きてきた。言い返した記憶は、ほとんど無い。
ルシアンは首を横に振った。
「違う。――決めるのは君だ。俺は、隣にいる」
隣。言葉にされると、胸の奥の冷えが少しだけ形を失う。
私は、隣を条件にする。
「なら、名で呼んで。聖女じゃなく、私を」
自分で言って、怖くなった。要求は、支配の入口になる。ずっとそう思ってきたから。
でもルシアンは、ためらわない。
「セレスティナ」
たったそれだけで、呼吸が戻る。名前は、鍵みたいだ。檻の鍵じゃない。私が私に戻るための。
胸の奥が大きく揺れた。嬉しい、と言ってしまえば楽なのに、私はその甘さが怖い。奪われたときの痛みを、もう知っているから。
ミロが、なぜか胸を張った。
「今の、良い例です。明日もその短さで!」
勢いのまま紙に何かを書きつけ、書き終えた瞬間に満足そうな顔をする。場違いなくらい真面目なドヤ顔で、私は危うく笑いそうになって、喉の緊張が少し緩んだ。
その緩みを、現実がすぐ塞ぎに来る。
ミロは床を見た。さっき私が癒やした場所、血が止まったはずの石目。布で拭っても、痕は残る。
「血が出た記録、残りますよね」
声が小さくなる。怖いのは血じゃない。血に付く言葉だ。
「門番記録と面会簿、照らし合わせられたら……夜の動きが、全部つながります」
ミロは言い切らず、紙束を抱え直した。私のせいで誰かが困る、という癖が喉元まで上がってくる。
ルシアンの手が腰に触れかけて、止まる。剣の柄に触れる前で、ぴたりと。
神殿内流血禁止。あの規則が、今も彼の手首を掴んでいる。
「剣は使わない」
低い声が落ちる。
「代わりに、残す。札も、簿も」
彼の外套の内側から、折り目の付いた硬紙が出た。通行札の控え。紙なのに、重い。
ミロが反射で身を乗り出す。
「札と時刻と、目撃者の名前。あと、言葉は短く」
また短く、だ。短さが武器になるなんて、私は知らなかった。
私は気づく。記録は鎖にもなる。でも、鎖の形を選べるなら、盾にもなる。
その選び方を、私はさっき、ミロの血でやったばかりだ。助けたい気持ちを、罪にされたくない。それだけは譲れない。
ミロが面会簿を開き、空白の行を見つめる。ペン先が震えて、いったん紙の角をそろえてから深呼吸した。
「明日の順序、確認します」
祈祷台の前で言うのが可笑しくて、でも笑えない。
「まず聖遺物。それから、あなたが宣言する」
短い。噛み砕かれている。私でも呑み込める。
「宣言は、長くしなくていいです。刺さる1文で」
さっき書いた紙を掲げるみたいに持ち上げて、すぐ恥ずかしくなったのか小さく咳払いした。
紙には、でかでかと短文だけが並んでいる。短すぎて、逆に逃げ場が無い。
私は、練習する。
戻れば楽。黙れば痛くない。喉がそう囁く。だから、言い直すための間を作る。
「……はい」
口が勝手に形を作る。私は舌を噛みそうになりながら、続けた。
「……いいえ、私は、戻りません」
言えた。まだ震えている。でも、言えた事実は残る。私の声は、誰の所有物でもない。
ルシアンの視線が、私の口元から逸れない。褒めない。命令しない。ただ、落とさない。
その静けさが、甘い痛みになる。守られるのが怖い私に、守り方を選ばせる痛みだ。
小窓の外で、風が鳴った。灯りが揺れて、壁の影が伸びる。
私は影の形に怯えそうになり、祈祷台の縁に指を置いた。冷たい木の感触が、今ここにいると教える。
「明日まで……生き延びないと」
つぶやいたつもりが、声になってしまう。
「生き延びる」
ルシアンは即答した。即答が怖い。確信は檻になりやすいから。
けれど彼は、言葉を削って止めた。
「君が動ける分だけ、俺が規則を背負う」
その言葉が、鎖じゃなく背負い袋に聞こえた。重さを私から引き受ける、と言っている。
ミロが、私とルシアンの間を見て、なぜか床のタイルを数え始めた。
「隣って、座席配置の話でしたっけ……」
言ったあとで顔が真っ赤になり、慌てて紙束の影に隠れる。
そのおかしさで、私はやっと息を吐けた。
吐いた息の先で、ルシアンが半歩だけ近づいて、止まる。いつもの癖だ。近づいて、止まる。線を引く。
私はその線が怖いのに、欲しくなる。隣の距離が欲しい。
彼の声が、今度は低く、柔らかく落ちた。
「君を――」
続きが来る前に、鐘が鳴った。神殿の鐘。制度の刃が、恋を切る音だ。
同時に、扉の外で足音が止まり、鍵束がはっきり鳴った。呼び声が続く。
「騎士団長、至急」
名前じゃない呼び方が、彼を連れていく。
私は答えを待っていたはずなのに、胸に残ったのは言葉じゃなく、奪われる予感だった。
読了ありがとうございます。檻じゃなく隣、その言葉の続きは鐘に切られました。扉の外で鳴った鍵束は、誰の手にあるのか。続きが気になったら、ブクマ&評価で応援して頂けると励みになります。ひと言感想も大歓迎です。




