第8話 巻き添えの血、止まる息
……血の匂いだ。
静かな回廊で、赤だけが先に届く。神殿では流血が禁じられている。だからこそ、鼻の奥に刺さった瞬間、息が止まった。
足元で、ミロが膝を押さえてうずくまっている。指の隙間から、じわりと濃い色が滲んだ。
私がここにいるせいで。そんな考えが、喉の奥を締めつける。
さっきまで、血なんて無かった。
回廊の合流点で、伯爵家の家令バルドが深く頭を下げた。礼は完璧で、声は柔らかい。けれど言葉は、鎖みたいに硬い。
「お迎えに参りました、お嬢様。お帰りの支度は整っております」
私の口が勝手に動きかける。
「……は」
言い慣れた返事の形で、戻ろうとする癖。
その前に、ルシアンの外套が視界に差し込んだ。前に立って塞ぐのではなく、半歩だけ角度を変えて、私の退路を残したまま通路だけを消す。
「帰す権限は、今はない」
「争うおつもりは? 規則が許しませんよ」
バルドの言葉に、ルシアンの手が腰へ伸びかけて止まった。剣の柄に触れない。触れたら、ここは戦場になる。血が出たら、私が悪者になる。
規則は守るためのものなのに、今は刃より怖い。
そこへ、石の上を転がる車輪の音が近づいた。
「し、失礼します! 礼法上まず……」
ミロが荷車を引いたまま、律儀に頭を下げようとして、動きが遅れた。
その間に回廊の空気が詰まる。従者が距離を詰め、ルシアンは肩と腕で押し返す。私は息を浅くしながら、ただ立っていた。
荷車の車輪が石の継ぎ目に噛んだ。
嫌な予感が、音で来る。
次の瞬間、ミロの足が滑って、体が前に投げ出された。紙束が散り、膝が石にぶつかる鈍い音がした。
そして今。
血の匂いで、私の世界が狭くなる。戻れば楽。戻れば誰も困らない。脳がそう囁く。
バルドが、ため息みたいに優しい声を落とした。
「血が出ましたね。規則に従いましょう。ここでの騒ぎは……お嬢様のためになりません」
お嬢様のため。家のため。皆のため。
その言い方が、私を黙らせてきた。
喉の奥に「はい」が押し上がる。出せば、全て終わる。
ルシアンの低い声が、私の耳にだけ届いた。
「セレスティナ。選べ」
ミロは歯を食いしばって笑おうとした。
「だ、大丈夫です。これくらい……礼法通りに……っ」
「喋らないで」
言った瞬間、自分の声が震えているのが分かった。怖い。私が動けば、また誰かが傷つく気がする。
でも、目の前で痛がっている人を見捨てたら、私は結局、戻っただけだ。
私はしゃがみ込んだ。
ミロの膝に触れようとして、指が空中で止まる。触れたら、祝福が勝手に流れて、また奪われるのではないか。そんな恐怖が残っている。
それでも、手を引っ込めなかった。
「助けたい。……それだけは、私の罪にしないで」
祈り方は知らない。儀式の文句も知らない。
知っているのは、私の中にある温かさが、意思の向きで変わることだけだ。
掌が、じわりと熱を持った。
光が集まる気配が、皮膚の内側で鳴る。怖いのに、怖さの奥で、何かがほどけていく。
私は息を吸った。吐いて、指先でミロの傷に触れた。
白い光が、静かに落ちた。
血が止まる。皮膚が閉じる。
奇跡の瞬間は派手じゃない。温度と匂いと、ミロの呼吸が戻る音だけが残った。
回廊の端で、灯り番の修道士が息を呑むのが見えた。別の誰かが、手にしていた帳面を抱き直す。視線が集まる。噂は紙より速い。
私は、褒められるのが怖かった。期待は檻になる。奇跡は、所有される。
バルドの笑みが、整ったまま私の方へ向く。
「お心は尊い。ですからこそ、こちらでお預かりし――」
その続きを、ルシアンが切った。
「剣は抜かない。――だから、記録を抜かせない」
彼の視線が、ミロの散った紙束へ落ちる。拾う手が震えているのを見て、私も気づく。血は怪我だけじゃない。血の記録は、明日の刃にもなる。
乾いた音がした。
ぱきり、と耳の奥に刺さるような亀裂音。
バルドの腰の紋章石に、細いひびが走っていた。光を吸うみたいに熱を持っていた石が、今は冷たそうに見える。
バルドの視線が、私の手ではなく、自分の石へ落ちた。
完璧な所作が、少しだけ遅れる。
「……今夜は、ここまでにいたしましょう」
丁寧な声のまま、撤く。従者も動きを引いた。逃げ道が開いたのに、私の足は震えたままだ。
勝ったわけじゃない。ただ、形勢が傾いた。その理由が、怖い。
光を使った反動が遅れて来た。
指先が冷える。胸が狭い。呼吸が浅くなる。
ルシアンが外套を持ち上げかけて、止めた。私を包めば温かいのに、囲えば檻に似る。
代わりに、彼は半歩だけ近づいて、私の倒れそうな軸に合わせて立った。
「支える。――縛らない」
その言い方で、胸が痛くなる。優しさは怖い。けれど、ここには命令がない。
私は頷きかけて、言い直した。
「……はい。……いえ。自分で立ちます」
言えた。喉が熱い。
ミロが治った膝で立ち上がろうとして、また律儀に姿勢を正そうとして顔を歪めた。
「お礼は……礼法通りに……!」
「今はいいから」
ルシアンが短く遮ると、ミロは涙目で頷いた。インクの染みた指が、散った紙を集めようとして震えている。記録係の手だ。明日、ここで何が起きたかを書き残す手だ。
ミロが紙束を胸に抱え、唇だけ動かした。
「血が……残ります。明日、『暴れた』にされます」
その言葉が、私の背中を冷たく撫でる。
ルシアンの声が、さらに低くなる。
「君が選んだ光だ。誰にも渡さない」
心臓が跳ねて、私は反射で身を固くした。檻の音に聞こえたからだ。
でも彼は、すぐ続きを足した。
「……だが、決めるのは君だ」
同じ言葉なのに、形が違う。奪うためじゃない。私の意思を前提にしてくれる。
その事実が、怖さの上に薄い板を置いた。踏める。まだ折れない。
遠くで鐘が鳴った。
明日が来る。公開審問の日が。
乾いた亀裂音は、まだ耳に残っている。
割れたのは石だけなのか。それとも、祝福の行き先そのものが、今夜から割れ始めたのか。
読了ありがとうございます。血と亀裂の音のあと、明日の公開審問へ――セレスティナは「戻らない」を言葉にできます。続きが気になったら、ブックマーク&広告下の【☆☆☆☆☆】評価で応援して頂けると励みになります。ひと言感想も大歓迎です。




