第7話 丁寧な拉致、丁寧な嘘
「お迎えに参りました、お嬢様。――こちらが正規の札でございます」
灯りの切れ目から現れた男は、伯爵家の家令バルドだった。回廊の冷気よりも先に、丁寧語が私の喉を締める。
帰宅。保護。手続き。どれも優しい顔をして、逃げ道を塞ぐ言葉だ。
私の口は反射で「はい」を作りかけた。舌が上顎に貼りつく。
その手前で、ルシアンが歩幅を変えずに立ち位置だけをずらした。前に立たない。けれど通路の芯を、半歩で消す。
黒い外套の影が、私とバルドの間に落ちる。
「その札を出せ」
ルシアンの声は低い。剣の柄に触れかけた手が、腰で止まったままだ。
神殿内で刃は正義にならない。さっき聞いた規則が、いまも彼の指を縛っている。
バルドは笑みを崩さず、硬い紙片を両手で差し出した。端には神殿の印、角には赤い回覧印。
通行札。正しい者だけが通れる、という顔をしている。
私はそれを見た瞬間、胸の奥に古い鎖音を聞いた。父の指輪が祝福を吸ったときと同じ、いやな金属の気配。
「神殿の面会簿に記録はあるか」
「当然でございます。面会室も確保しております」
バルドの語尾は柔らかい。柔らかさが、刃より痛い。
私の脳は、戻れば楽だと囁く。罰の記憶は、正しさの衣を着てやって来る。
ルシアンは札の印を指先で弾いた。かちり、と爪が硬紙を叩く音が、鍵のように響く。
「発行印が神殿だ。なら、記録に残せ。ここで連れて行くなら、誰の許可で、どの欄に署名する」
問いは命令にならない。なのに、場の空気だけが動けなくなる。
バルドの目が私の口元へ向く。
「お嬢様。お戻りくださいませ。ご家族が案じております」
案じる、という言葉が、私を器に戻す。
喉の奥が痛んだ。私は息を吸って、吐けなかった。
回廊の向こうから車輪の軋みが来た。
書類と備品を積んだ小さな荷車が、角を曲がって現れる。押していたのは見習い修道士ミロだ。
「し、失礼します! ……っ」
深く頭を下げた拍子に、額が荷台の縁へ当たった。音がやけに大きく響き、ミロが無言で目を潤ませる。
目撃者が増えた。私の背筋が冷える。
バルドはその気配に、丁寧さを上乗せした。
「見習い殿もご同行を。正しい手続きでございますから」
その言葉で、ミロの顔色が変わった。正しい、は逃げ場を奪う。私は知っている。
ルシアンが小さく息を吐く。
苛立ちが、雪の匂いの奥で鳴った。囲ってしまいたい衝動が、声の端に滲む。
「……渡さない」
瞬間、私の身体が凍る。守られる、は檻の合図だ。
けれど彼は、言葉の途中で切り替えた。
「……決めるのは君だ。セレスティナ」
名で呼ばれたとたん、喉が少しだけほどけた。
私はミロを見る。荷車の把手に白くなった指。巻き込まれる恐怖で、私の「はい」がまた喉へ上がる。
言わない。言ったら戻る。
バルドが面会室の扉を先に開けた。中には小さな机と椅子だけ。灯りは穏やかで、だから余計に怖い。
「署名だけで結構でございます。お嬢様の安全のために」
安全。私の人生から奪われ続けた言葉だ。
喉が灼ける。
私は震えたまま、声を出した。
「……帰らない」
自分の声が、自分の耳に刺さる。痛い。けれど息ができる。
ミロが息を呑み、ルシアンの目が私に合う。褒めるでも急かすでもない。ただ、受け取ったという静けさだけ。
バルドの笑みが薄くなる。すぐに貼り直され、丁寧な仮面へ戻った。
「では、お気持ちは尊重いたします。……家のためという形で」
形。言葉が、私を縛る素材になる。
机の上へ、バルドが紙束を置いた。封蝋の跡があるのに、封は切られている。
署名欄の横に、家紋の印章。押せば終わる。押した瞬間、私は戻ったことにされる。
ミロが荷車から小さな帳面を取り出した。面会簿の写しらしい。空欄が並び、そこに私の名が書かれる未来が見える。
私の指先が震えた。祈祷用の白布を握り、汗を隠す。
紙の白さが、罰の白さと重なる。戻れば叱責は減る。食事は出る。仕事は命じられる。私の光は、家のものだと言われ続ける。
楽だ。だから危ない。
そのとき。
バルドの腰の紋章石が、布越しに光った気がした。
どくん、と脈を打つ。熱がある。吸い寄せられる感覚が、胸の奥から引きずり出される。
父の指輪。祈りより先に、光を欲しがった石。
同じだ。違う顔で、同じことをする。
私は思わず手の甲を押さえた。聖痕の輪郭が冷たい。
息が浅くなる。回廊の鎖は外れたのに、身体がまだ鎖を覚えている。
バルドが優しい声で畳みかける。
「お嬢様。ご署名を」
私の口が、また「はい」を作った。
恐怖が、礼儀に化ける。
その癖を折るには、声を出すしかないのに、声は喉で詰まる。
「封蝋を付け直せ」
ルシアンが言った。短い言葉に、刃より固い意思がある。
「面会簿の欄もだ。写しも残す。今夜の手続きを、ここで終わらせるな」
彼は私ではなく紙を見る。私を私物にしないための視線だと、分かるのが苦しい。
守り方が、檻じゃない形へ寄っている。
バルドの指が止まる。丁寧さが武器の男は、記録に絡め取られるのを恐れている。
「……もちろんでございます。ただ、監督官の印が」
「呼べ」
ルシアンの声が鋭くなる。剣は抜けない。だから言葉の角度だけで突く。
「札を預かる。門番の記録も合わせる。ここで曖昧にするな」
正規の札は、私を連れ戻す鎖のはずだった。なのにいま、記録を求めた瞬間から、バルドの足が鈍る。
丁寧さは無敵じゃない。丁寧さほど、帳面に縛られる。
ミロが机の端で、泣きそうな顔のまま口を挟んだ。
「ふ、封蝋って……押す力、どれくらいですか」
場が少しだけ現実に戻る。ミロの真面目さが、怖さの輪郭を薄める。
私は笑えない。でも、息が入る。
バルドは深く頭を下げた。
「今夜は、ここまでにいたしましょう。お嬢様のお言葉は、確かに承りました」
承りました。受け取ったふりの音だ。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。丁寧な靴音は、次の手順へ向かう音に変わる。
残ったのは、机上の紙と、私の胸の冷えだ。
ルシアンが通行札を折り目で挟み、ミロに渡した。
「写せ。欄ごとだ。……手が震えるなら、深呼吸してから」
「は、はい……っ」
ミロは頷き、目尻を拭って帳面を開く。小さな背中が、必死で場を保っている。
私の視界の端で、ルシアンの拳がほどけた。彼は私へ触れない。触れたら、囲いになると知っているから。
それでも声だけは近い。
「怖いなら、怖いと言え」
私は喉を押さえた。痛みがまだ残っている。
怖い。戻るのが怖い。戻らないのも怖い。
答えは簡単なのに、言葉は簡単じゃない。
「……怖い」
言った瞬間、胸の中の鎖が少しだけ緩む。
ルシアンは頷いた。
「なら、その怖さも記録に残す」
彼の言葉は冷たい。けれど、その冷たさが私を守る形をしている。
私は机上の紙を見た。押印のための穴が、口を開けている。
さっきの紋章石の脈が、まだ耳に残っている。
家が祝福を持っていたんじゃない。持っているふりをして、どこかへ流している。
祈りより先に……吸う。
ここまでお読みいただきありがとうございます。セレスティナを縛る“丁寧な嘘”の正体、次話でさらに一枚剥がれます。面白かった/続きが気になったら、広告下の【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆評価】で応援して頂けると執筆の励みになります。




