第6話 灯りの間隔、逃げ道の音
「確定前は、誰の手でも届きます。……だから記録します」
記録係の声は淡々としていた。言葉だけが、薄い紙みたいに私の胸へ貼りつく。
私の腕に通された革紐の先で、通行札が小さく揺れた。留め具が金具に触れて、かすかな音を立てる。
守られているはずなのに、その音が檻の合図に聞こえた。
回廊入口の卓には、面会簿と赤い印章が並んでいる。神殿門番のレネトは乾いた指先で札を弾き、印の位置を確かめた。
「暫定保護。……確定まで面会は不可」
不可。守る言葉の形をして、穴を言い渡す言葉だった。
ルシアン様の手が腰へ行きかけて、止まる。剣の柄に触れないまま、指だけが空を掴んだ。
「……神殿内での流血は禁じられている」
レネトが規則を読むように言う。私の喉が乾く。
剣が抜けない。強い人が横にいるのに、今夜の私は紙の札でしか守れない。
「記録しろ。歪めるな」
ルシアン様は声を荒げない。札の端をつまみ、署名欄に短く線を引く。記録係が筆先を走らせ、赤い印を押した。
印が落ちた音が、やけに大きかった。
札が返される瞬間、記録係が小声で付け足す。
「……今夜は、特に」
私は息を飲んだ。問い返せないまま、足だけが前へ出た。
回廊へ入ると、空気がさらに冷えた。灯りの間隔が広い。光と光のあいだが、深い溝みたいに暗い。
「灯りは遠い」
ルシアン様が前を見たまま言う。
「だから、止まるな。俺は前に立たない。……逃げ道を作る」
命令の形じゃない。歩き方の提案だった。それなのに、背中が熱くなる。守られ方を、選ばされている気がした。
私は頷きかけて、喉が勝手に言葉を作ろうとするのを感じた。
はい。
その癖が、舌の先まで出てくる。昔みたいに、従えば楽だと。
でも、楽の先には、戻る場所がある。あそこは、光を吸う。
口を開いて、別の言葉を探した。
「……怖いです」
出た声が自分のものに聞こえなくて、私はさらに怖くなった。
ルシアン様は振り返らない。けれど、声だけがきちんと私へ届いた。
「怖いなら、怖いと言え」
責める響きじゃない。許す響きだった。
「言えるのは強い。……黙る癖は要らない」
胸が震える。私はまた、はいと言いかける。
「……はい。……いいえ、戻りません」
言い直すまでの間が、暗がりの中で長く伸びた気がした。
その瞬間、灯りのひとつが風でふっと消えた。
影が増える。回廊の壁が近づき、息が詰まる。
ルシアン様の手が伸びた。触れない。けれど、私の肩の横を通って、壁側へ位置をずらすように空間を切った。
「止まるな」
声が低く、短い。私は足を出そうとして、もたついた。自分の鈍さに腹が立つ。泣きそうになるのを、歯で噛み締めた。
暗がりの向こうで、足音が増えた気がした。
確かめられない。耳の奥だけが、余計な想像を増やす。
続けて、金具の触れる音。鍵束か、札の留め具か。断定できないまま、背筋が冷えた。
曲がり角の先に、小さな礼拝室の扉があった。ルシアン様が留め具へ指を当て、音を殺して確かめる。
「入る」
短い指示。私は反射で従いかけて、また息を飲む。
従うのは簡単だ。でも、従うだけだと、誰かの手に届く。
留め具が動く。かちり、と乾いた音がした。
不思議だった。その音が、檻の鍵じゃなく、逃げ道の合図に聞こえた。
扉が開いた瞬間、後ろから慌ただしい気配が来た。
「し、失礼を……!」
ミロの声。荷物を抱えたまま、礼法どおりに深く頭を下げすぎて、通行札を床に落とした。
「え、ええと……札、落としました!」
金具が石床を打つ。甲高い音が回廊へ転がった。
「拾わないで。……音が出る」
私の声は震えていた。ミロは固まる。拾う所作まで礼法でやろうとして、余計に時間を使いそうになる。
「で、でも……」
「そのまま。あとで」
私は言い切って、自分でも驚いた。止める言葉を、誰かに向けて出したのは初めてだった。
扉の隙間から、回廊の暗さが細い刃みたいに差し込む。
影が、ひとつ止まった気がした。
気配が止まる。聞かれた。見られた。どちらでも、もう遅い。
ルシアン様が扉を閉める。留め具がまた鳴る。かちり、と。
ここへ入るのは逃げじゃない。生き延びる手順だと、遅れて理解した。
礼拝室の中は小さく、灯りは蝋の皿ひとつだけだった。光が弱い分、物音が大きい。
安全って、こんなに音がするんですね。そんな感想が喉まで上がって、飲み込んだ。
外で、布が擦れる音がした。足音が、丁寧に近づく。
私の喉に、はいが浮く。帰る、と言えば楽だと、体が知っている。
でも、楽のために誰かを巻き込むのは、もう違う。
「名乗れ」
ルシアン様の声が扉越しに落ちる。
返事はすぐだった。丁寧すぎる声。私の名前を、昔の家の呼び方で包む声。
「お迎えに参りました」
扉の向こうで、呼吸を整えるみたいな短い沈黙が落ちた。敬語の端が、ぴたりと揃いすぎている。
ミロが私の背後で小さく息を吸う。
「い、今の敬語……綺麗すぎて、怖いです……」
感想がずれているのに、声が震えているのが分かって、笑いそうになってしまう。笑えないのに。
私は手のひらを握り込んだ。爪が皮膚に食い込む痛みで、今ここにいると確かめる。
戻れば楽。そう囁く癖が、まだ私の中に生きている。
けれど、楽はいつも私だけのものだった。奪われるのは、いつも私の光だった。
ルシアン様が半歩だけ横へ退く。扉の正面を空ける。私の声が外へ届く場所を、あえて残す。
前に立って遮らない。命令で縛らない。
逃げ道を作る。そう言った意味が、遅れて胸に落ちた。
私は息を吸った。喉が勝手に、はいを作ろうとする。
飲み込む。痛いほど、飲み込む。
「……戻りません」
声は小さかった。けれど、消えなかった。蝋の灯りが揺れても、言葉は残った気がした。
外の丁寧な声が、少しだけ低くなる。笑ったのか、息を整えたのか、判別できない。
「お嬢様」
呼び方だけで、鎖が巻き戻されそうになる。
そのとき、扉の向こうで金具の音がもう一度だけ鳴った。
札か、鍵か。どちらでもいい。ここは神殿で、剣は最適解にならない。
だからこそ、記録と規則の穴から、誰かが手を伸ばしてくる。
私はルシアン様を見上げた。暗い瞳が、私の返事を待っている。
守られている。けれど、選ぶのは私だ。
その事実が、今夜いちばん怖くて、いちばん救いだった。
「お迎えに参りました」
ここまでお読みいただきありがとうございます。『戻らない』を選んだセレスティナに、次は迎えの正体と神殿の規則の穴が牙をむきます。続きが気になったら、広告下の【☆☆☆☆☆】で評価&ブックマークで応援して頂けると励みになります。




