第46話 刻印は嘘をつけない、名義は嘘をつく
薄明かりの刻印確認卓で、欠片が冷たく光った。
次の瞬間、反応先の文字が揃う。
監督官長名義。
胃の奥が、氷水を飲んだみたいに沈んだ。
「……これ、名前が出た。でも――」
声が自分のものじゃない。
指先が勝手に封蝋の縁をなぞる。
欠片は嘘をつけない。
だから、嘘をついているのは……名義。
「反応、嘘つけないです。……刻印は」
ミロが声を落とした。
机の端に置いた控え紙は、もう黒い数字で埋まっている。
「……これ、大きすぎる相手です」
監督官長。
個人の名ではなく、椅子の名だ。
殴っても痛がらない。
誰かを倒しても、椅子は残る。
そんな相手に、私は今まで家の檻だけで息をしていた。
喉が鳴る。
理不尽は、音もなく背中に乗る。
でも、ここで折れたら、評議の席に座る前に終わる。
「名義が出たなら……名義を固定して剥ぐ」
言葉にした瞬間、胸の痛みが少しだけ整理される。
怖いのに、手は動く。
紙束を直し、封蝋の番号を確かめる。
ミロが息を吸い、また数字を書き足した。
扉の向こうは朝なのか夜なのか分からない。
神殿の灯りは、いつも人の顔色だけを白くする。
残り3日。
短すぎて、長い。
刻印卓を離れ、国庫へ向かう廊下を進む。
通行札を見せるたび、視線が刺さる。
札の番号を読む声が、昨日より硬い。
増えたのは検札だけじゃない。
私たちの背中に貼り付く気配も、だ。
「止めてください」
ミロが小さく言った。
「……私、敬語が増えると息が浅くなるので」
笑いそうになり、喉で噛み殺した。
笑ったら、怖さが溢れる。
だから、呼吸だけを整える。
国庫の小部屋は、紙の匂いが濃い。
窓は小さく、机の上だけが明るい。
国庫実務官グレムが、私たちを見て眉も動かさなかった。
「確認を」
短い。
それだけで、ここが戦場だと分かる。
ミロが帳簿を開き、該当の行だけを指でなぞる。
増えた流量。
寄進名目。
そして日付。
刻印の反応が出た日と、同じ位置に並ぶ。
喉の奥が冷える。
善意の言葉が、帳簿の上では仮面になる。
仮面の裏は、数字でしか剥がれない。
「……合致してます」
ミロが言い切った。
その声が震えたのを、私は見ないふりをした。
グレムは帳簿の端を揃え、指先で受領印欄を叩いた。
紙が鳴る音だけが、脈みたいに響く。
「口で言うな。写しに残せ」
照合用の印章を手の中で転がした。
押すほど、逃げ道が減る重さ。
ミロが写し束を差し出す。
写しは3通。
目録を付け、封蝋番号を並べ、余白に条文番号だけを残す。
言葉じゃなく番号が、あとで喉を締める。
グレムは目を伏せたまま、該当の頁をほんの少し布で隠した。
理由は聞かない。
聞けば、私も同じ恐怖を背負う。
でも、隠したのは数字じゃない。
上の名義。
背筋が冷えた。
「寄進の顔が好きなんだろうな」
グレムが吐き捨てるみたいに言った。
「いい顔は、帳簿に残る」
私は頷く代わりに、言葉を選んだ。
「救済を名乗るなら、まず嘘をつかない形で来て」
自分の声が硬い。
硬くしないと折れる。
グレムは印章を押した。
乾く前のインクの匂いが、胸に張り付く。
証拠は、香りまで重い。
国庫を出ると、回廊の空気が少し冷たかった。
遠くで鍵束が鳴る。
金属の音が、胸の奥に触れる。
提出口の扉が開く音に似ている。
そこで、ルシアンが待っていた。
鎧の金具が光るのに、声は低くて静かだ。
私の名前を呼ぶ気配が、ない。
それが胸をざわつかせた。
「これが経路だ」
差し出されたのは札の束と、小さな地図片だった。
通行札の番号が、全部書かれている。
線の太さが、信頼の形みたいに見える。
私は受け取った。
受け取った瞬間、守られているだけじゃない、と分かった。
渡されたのは道で、選ぶのは私だ。
「……ありがとう。次は、封蝋を揃える」
自分で言って、少し驚く。
指示を出している。
私が、動かしている。
ルシアンは頷くだけだった。
反論も、過剰な優しさもない。
ただ従う。
それが怖いほど嬉しい。
「君が選ぶ。……俺は、その選んだ証拠になる」
短い言葉が落ちた。
胸の奥が、熱くなる。
なのに、欲しいのは別の短さだった。
呼び方。
名で呼ばれる、その短さ。
言いかけて飲み込む。
今は公務の回廊だ。
噂は壁からも生える。
「提出口に着いたら、あなたは立会いの位置へ」
「分かった」
「私は窓口にだけ話す。余計な言葉は要らない」
「……手順通りに」
私の指示を、彼が受け取る。
守るために前に立たない男が、今は私の背中も預かる。
胸が少しだけ軽い。
提出口へ向かう途中、検札が増えていた。
通行札を差し出すたび、門番の目が番号に吸い寄せられる。
ミロが小声で復唱した。
「……数字、裏切らないですから」
回廊の端で、ミロが写し束を抱え直した。
その拍子に羽根ペンの先が瓶の縁をかすめた。
ぱちり、と音がして、黒い雫が跳ねる。
「……っ」
ミロが声を出しかけて、飲み込んだ。
紙の白が汚れる。
些細な不備が、命取りになる空気がここにある。
私はすぐに砂を振り、布で押さえた。
染みは残る。
残るから、嘘が混じる余地も残る。
だからこそ、残したまま進まない。
「この写しは捨てる。次を出して」
「でも、時間が……」
「時間より、穴が怖い」
自分の声が思った以上に鋭くて、私が驚いた。
守られているだけの声じゃない。
戦う声だ。
ミロは頷き、封蝋の粉を指から払った。
欠片の封蝋が、腰の袋で重い。
正当性の核。
だから狙われる。
遠巻きの気配があった。
視線が外套の隙間を探っている気がする。
ルシアンの体が、前に出かけて止まる。
剣は抜かない。
抜けない場所で勝つと決めたからだ。
提出口の方向から、声が聞こえた。
刃みたいに短い。
聞き覚えのない声なのに、胸が先に縮む。
「封蝋の合致を」
ミロの肩が跳ね、私の手の中で通行札がかすかに鳴った。
要求は、もう用意されている。
私たちが到着する前から。
名義の皮を被った誰かが、ここで待っている。
私は欠片の袋を握り直した。
指の腹に封蝋の凹凸が食い込む。
刻印は嘘をつけない。
でも、名義は嘘をつく。
だからこそ。
嘘を、手順で剥がす。
読了ありがとうございます。名義の嘘を剥ぐため、残り3日で提出の勝負が始まります。次話は提出口で待つ相手と、欠片が示す新しい印影へ。続きが気になったらブックマーク、そして広告下の【☆☆☆☆☆】から評価をいただけると執筆の励みになります。感想も大歓迎です。




