第44話 抜け道の鍵穴、3日後の席
「……紙が私を縛るなら、紙でほどきます……」
封蝋の匂いが、喉の奥に貼りついた。指先に残る粘りまで、昨日の命令を思い出させる。あれは私を守るための書面だった。そう言い切る人ほど、奪う時に迷わない。
神殿の応接は、窓が高くて音が逃げる。大神官ディオニスが杖を軽く鳴らすだけで、空気がまっすぐになる。
「救う言葉ほど、奪う時に便利だ……」
淡々とした声に、私の背が冷える。ルシアンは私の半歩後ろ。いつもの距離だ。近づくのに、1歩で止まる癖まで、今日は硬い。
私は無意識に手の甲を隠した。花弁型の聖痕が、封蝋の匂いにだけ疼く。
「順番を決めます……」
ディオニスは机上の紙束を、指先で揃える。刻印、帳簿、条文。言葉じゃなく、順序。
「先に触れたもの。次に数字。最後に手順。感情は挟まない。挟めば折られる……」
言われなくても分かっているのに、胸が痛む。私はまだ、感情を挟んでしまう。
ミロが紙束を抱え直して、喉を鳴らした。
「根拠は?」
ディオニスの短い問いに、ミロが勢いよく頷く。早口になりかけて、私が指で小さく合図した。息。ミロは瞬きの間に黙り、赤くなる。
ルシアンが、私を見ずに言った。
「抜けない剣より、抜けない記録を作る……」
剣の代わりの言葉が、胸の奥を叩いた。守る、と言われるより怖くない。だけど、怖さが消えるわけでもない。
書面室は紙の匂いが濃い。机の端に、差戻し用の赤い印が置かれている。それだけで、身体が固くなる。押された瞬間、私は戻されるから。
ミロが小さな紙片を差し出した。文字は番号だけ。
「条文番号だけ控えておきます……」
癖みたいに言う。癖だから、救われる。
私は該当箇所を指でなぞった。紙の繊維が指腹に引っかかる。
封印が裂けた時。裂け目ができた時。開けられた時。誰かが触れた時。
条文は、逃げ道じゃなくて、閉じた扉の正面にある鍵穴だった。
「……見つけた。ここが、穴だ……!」
声が震えた。汚い勝ち方だと思っていた抜け道が、逃げ得を許さないための正道だと、紙が証明してしまう。
ミロは目を丸くして、唇だけで笑った。
「番号……生きてます。生きてます!」
「声……!」
私が言うと、ミロは両手で口を押さえる。情けないほど真面目で、だから信じられる。
条文の余白に、小さく参照がぶら下がっていた。名義の文字だけが、黒い針みたいに刺さる。
監督官長名義。
指先の熱が、嘘を許さない。
私はいったん視線を逸らしてから、また戻した。逃げない。逃げたら、次はもっと奪われる。
刻印確認の石卓は冷たいはずなのに、触れる前から手の甲が熱い。私は袖を上げ、隠す癖を噛み殺した。
封蝋台帳の印面に指が触れた瞬間、焼けるような痛みが走る。
声が出そうになって、飲み込んだ。ここで叫んだら、また私情になる。
「……反応、出てます?」
ミロの声が遠い。私は頷けなかった。熱は命令書そのものではなく、印面に揃っていく。
いくつも並ぶ印の中で、同じ形の熱だけが繰り返し立ち上がる。
監督官長名義。
私の胃が冷えた。罰の入口だと思っていた刻印が、罰じゃない方角を指している。命令の名前を。
怖い。怖いのに、嬉しい。やっと敵が形になったから。
涙が出そうになって、私は石卓をもう1度強く押さえた。痛みで、戻る癖を折る。
提出口は石の窓だ。神殿監督官ヴェラが鍵束を鳴らし、国庫書記セルジュが受領簿を開く。紙の端が風で揺れただけで、心臓が跳ねる。
「封蝋番号。合致を。復唱……」
ヴェラの声は刃みたいに短い。
ルシアンが立会いの位置に立ち、署名欄に羽根ペンを落とす。落ちる音が、剣より重い。
「形式が――」
監督官の言葉が滑る前に、ミロが紙片を出した。
「形式だからです。条文、ここです……!」
声は震えているのに、番号だけは真っ直ぐだ。
ヴェラの指が帳面を叩く。
「息をしてから話せ!」
ミロが息を吸って、次は噛まずに言い切った。
「写し。封蝋。受領。順に……」
セルジュが淡々と続ける。
私は紙束を差し出す直前で、手を引きそうになった。提出は、渡して終わりじゃない。渡した瞬間、触れられる。奪われる。
でも、今日の抜け道は逆だ。誰が触れたかを、公文書で固定する。
「ここに置くのは、証拠だけ。……私の人生は、置かない……!」
自分の声が、自分のものじゃないみたいに硬い。硬くしないと折れる。
ルシアンが1歩で止まったまま、低く言った。
「置かせない。君が動ける分だけ、俺が規則を背負う……」
ミロが封蝋で紙をまとめようとして、指がベタベタになった。泣きそうな顔で小声になる。
「証拠って……粘りますね……」
私は笑いそうになって、喉だけで飲み込む。笑ってしまったら、怖さが溢れる。けれど、胸の奥が少しだけ軽くなった。
受領印が落ちた。赤い印ではなく、受け取った証の印だ。立場が、ほんの少しだけ反転する。渡された側が、縛られる側になる。
封蝋が乾く前に、どこかで同じ印面の気配がした。遅い。でも確かに。空気の中に、同じ匂いが混じる。
回廊に出たところで、ディオニスの杖が鳴った。金属が石に触れる、短い音。
「宣告します。3日後の評議で管理権が決まる……」
言葉が落ちた瞬間、私の喉に「はい」が上がってきた。昔の癖。従って、戻って、黙って、耐える。
私は飲み込んだ。小さく首を振るだけで、身体が震える。
「……それは、命令ですか?」
私が問うと、ルシアンは即座に首を横に振った。
「違う。――決めるのは君だ。俺は、その選んだ証拠になる……」
胸の奥が、大きく揺れた。守られる恐怖が、尊重される怖さに変わっていく。逃げ場のない怖さだ。だからこそ、甘い。
「なら、名で呼んで。聖女じゃなく、私を……!」
言った瞬間、空気が止まる。ディオニスさえ、杖を動かさない。
ルシアンの喉が動いた。
「セレスティナ……」
その短さだけで、私は息ができた。
ミロが受領控えを抱え、走り書きを止める。紙片の端に、同じ印面、同じ日付の走り書きが見えた。
命令は、もう1通ある。
3日後の席が決まる前に、誰の権威がもう1度、封蝋を裂くのか……。
ここまで読んでくださりありがとうございます!セレスティナが紙の鎖を逆手に取った回でした。3日後の評議で誰が封蝋を裂くのか、次話で一気に動きます。面白かったら広告下の【☆☆☆☆☆】で評価、そしてブックマークで応援いただけると執筆の燃料になります!




