第43話 触れた痕、消せない証拠
ミロが封蝋を押す指先だけ、やけに冷たかった。封蝋の表面に、髪の毛ほど細い筋が走って見えた。
「……番号、合ってますよね……?」
小声が紙の山に吸われる。夜の神殿書庫は灯りが薄く、墨の匂いと蝋の甘い匂いが混ざって喉に残る。私は返事の前に息が浅くなり、聖痕のある手を反射で引きそうになって、押さえ込んだ。
合っている。そう言うだけで、何かが守れる気がしてしまうのが怖い。
机の上には写しが3通。言葉も順番も、同じ。違いが出ないようにミロは筆先を揃え、私も黙って行を追った。紙の上の黒い線が、今夜の私たちの骨になる。
「生き残る順番、間違えません」
その言い方が、もう祈りじゃない。戦い方の宣言みたいで胸が詰まる。
私は紙を押さえるだけの役目なのに、指が震えていた。紙は弱い。火でも水でも、たぶん簡単に終わる。でも弱いからこそ、分けて残せる。奪う側が全部に触れるには、手が要る。手は痕を残す。
「……番号、控えます。癖ですから」
ミロは折り目だらけの小さな紙片を取り出し、封蝋の番号と束ねる札の位置を書き込んだ。胸元から紙端が少し飛び出しているのに気づいて、私は無言で指先で押し込む。
「う、あ……ありがとうございます」
真っ赤になる速度が早すぎて、笑いそうになった。笑っていい夜じゃないのに。
封蝋を押し終えた瞬間、ミロの喉が鳴った。
「……番号、合ってますよね……?」
同じ言葉が2度目に落ちた時、私はやっと分かった。怖いのは紙じゃない。紙に触れる手順だ。
「合ってる。だから、もう1回だけ確認してから運ぶ」
「はい……はい」
返事の癖が、ここでは頼もしさに見えた。
監督官室の前は、書庫より冷えた。扉の封印が灯りに照らされて、蝋の表面が鈍く光っている。
そこに立つルシアンの黒い外套は、光を吸って影だけを濃くした。近づくのに、1歩で止まる癖。今日もそれが出て、私の肩の横で止まった。
「触るな」
命令じゃなく、境界線の言葉だった。
監督官が封印へ顔を寄せる。指は出さない。見るだけで、空気が落ちる。
「……裂け方が、礼儀正しい」
封蝋の割れ目が、綺麗すぎた。乱暴にこじ開けた欠けも、散った粉もない。刃物で切ったように真っ直ぐで、押した印面の輪郭だけが残っている。
誰かが開けた。誰かが、内側から。
胸の奥が冷えた。守ったはずの夜が、もう破られている。私の喉に、古い返事がせり上がる。
……はい。戻ります。私が悪いです。
口の形だけが勝手に作られて、息が詰まった。
ルシアンの手が腰へ行きかけて止まる。剣が正義にならない場所だと、身体が先に覚えている。
「追うな。逃げ道を残すな」
監督官が息を呑み、すぐ頷いた。
「記録を増やす。今からだ」
増やす。鎖を。そう思いかけて、私は視界が白くなった。囲われる。監視される。守られる名目で、また選ぶ手を奪われる。
その瞬間、ルシアンが私の名を呼ぶ。
「セレスティナ」
それだけで、喉の奥が少しだけほどけた。肩書じゃない音。戻る癖を止める音。
私は息を吸い直した。増えるのは檻じゃない。証人と立会いだ。逃げ道を潰すための扉だ。私の言葉を残すための数だ。
回廊へ戻る途中、私はルシアンの靴音だけを追った。怒りがあるのは分かる。沈黙の温度が違う。でも彼は私を見ない。だから怖い。切り捨てるために距離を取っているのだと、勝手に決めつけそうになる。
「……私のせいにさせない」
言葉が先に出た。驚いて、自分の喉を触った。痛い。まだ言える喉が残っていた。
ルシアンが止まる。1歩だけ近づいて、止まる。触れない距離で、逃げ道だけを塞ぐ。
「紙にも、あなたにも」
続けると、胸の奥が少しだけ温かくなった。怖さの中に、芯が立つ感じ。
「動いたのは人じゃない」
低い声が落ちる。
「……手順だ」
その言い方が、私の中の「檻」を少しだけほどいた。誰かを殴りに行く怒りじゃない。逃げ道を塞ぐ怒り。私の自由を守るために、私の自由を削らない怒り。
「抜けない剣より、抜けない記録を作る」
彼がそう言い切った瞬間、私は気づいた。抑えた手は、冷たさじゃない。檻を強くしないための選択だ。
私は聖痕の手を隠さず、掌を開いた。守られるだけじゃなく、共に守るために。
「……私も、記録の側に立つ」
ルシアンの目が、初めて私を見る。氷みたいに静かなのに、奥が熱い。
「決めるのは君だ」
その言葉が、今夜の鎖を外す鍵みたいに鳴った。
曲がり角の先でミロが待っていた。紙束を抱えたまま、口の中で何かを復唱している。
「証人候補……立会い……署名……」
噛んで、小さく舌打ちして、また復唱する。必死さが可笑しくて、でも泣きたくなる。
「書庫へ戻ります。控え帳、確認します」
「控え帳?」
「通行札の。棚に……誰でも触れる高さで……」
言い終える前に、ミロは書庫へ駆けた。私も追う。追う、じゃない。逃げ道を潰すために動く。
書庫の棚は低かった。立ったまま手が届く。祈りの本と同じ扱いで、帳面が並んでいる。これが運用の穴だと、身体が理解してしまう。
ミロが通行札控え帳を引き抜く。紙面の端が、灯りに白く浮いた。
「……白化してる」
指でなぞらない。見るだけで分かる。急いで開閉した痕がある。埃の筋が乱れ、紙の角だけ新しく削れている。
消すために触れたのに、触れた事実が残っている。
ミロは私の方を見て、頷いた。笑わない。今は仕事の顔だ。
「番号と……印の位置、セットで控えます」
ペンが走る音が、夜の書庫でやけに大きい。封蝋で紙をまとめようとして、ミロの指がべたついた。
「証拠って……粘りますね……」
ぼそりと落ちた言葉に、私は息だけ笑ってしまった。次の瞬間、ミロの視線が凍る。
控えた札番号の横に、走り書きがあった。印面の形も、日付の書き方も同じ。なのに、行が1本だけ増えている。
「……同じ印面で、同じ日付……」
ミロの声が震え、でも止まらない。
聖痕の奥が、封蝋の匂いに合わせて疼いた。
「命令は、もう1通ある」
ここまで読んでくださりありがとうございます。次話ではもう1通の命令書の正体と、封蝋に残った痕が誰を指すのかが動きます。続きが気になったらブクマで追跡、広告下の【☆☆☆☆☆】から評価を頂けると執筆の燃料になります。




