第42話 帳簿の傷、同じ日の印
「受領印と封蝋番号。揃わぬ数字は、国庫に『存在しません』」
実務官リーネの声は、紙より硬かった。
国庫会計室の窓は高く、冬の光だけが机に落ちている。棚の鍵は複数。扉の外には見張りの影。ここで『無い』と言われたら、それで終わる。
机に置かれた帳簿は、私の腕より厚い。表紙の革に擦り傷。背の金具に、封蝋の甘い焦げの匂いが残っていた。
ミロが綴じ紐をほどく。指先が震えているのに、手つきは正確だ。紙束の端に爪を立て、ページを開くたびに呼吸が浅くなる。
「この列が受領印。こっちが封蝋番号」
リーネは指で示すだけで、余計な言葉を足さない。
私は数字を見た。
祈祷の光みたいに曖昧じゃない。もっと嫌な確かさで、流量の手触りがわかる。
合っている行は、紙が静かだ。
合っていない行は、インクの下で引っかかる。小さな棘みたいに。
「……ここ」
ミロが指を止めた。
発令日。供給量。受領印。封蝋番号。備考。
全部そろっているのに、受領印の輪郭だけが薄い。押したはずの角度が違う。
そして封蝋番号が、帳簿の端にある目録と食い違っていた。
リーネが顔を上げる。
視線が私の手の甲に落ち、すぐに帳簿へ戻った。見ないふりではない。見て、戻した。
「この行は、どこへ流れた」
リーネの問いは責めではなく、手順だった。
答えようとして喉が固まる。
昔なら、反射で口が動いた。
はい。
私が悪い。
私が黙れば済む。
胸の奥が冷え、指先が痺れる。
それでも私は、息を入れ直した。ここで黙れば、誰かの言葉にされる。私の沈黙が、また奪われる。
「……確認します」
計算机の脇に、ミロが紙を並べる。リーネが別の帳簿を持ってきて、机の角に置いた。紙の山が増えるほど、私の頭は冴えていく。奇妙だ。救うほど弱くなる出力とは逆に、数字は私を立たせる。
ミロが鉛筆で線を引く。
合っていない行だけを、太線で囲っていく。
「同じ……癖があります」
ミロの声がかすれた。
「癖」
リーネが短く返す。
「不自然流量です。増えないはずの量が、増えた形だけ残ってます」
私は囲まれた行を追った。
供給量の数字は、私が感じた出力と合わない。
あの頃の私は、鎖と命令の中で、ただ流した。流す先は選べない。けれど身体は覚えている。流した感覚の重さ。空になる速度。
帳簿の数字は、私の感覚より軽い。
軽いのに、増えている。
矛盾が、紙の上で成立している。
吐き気がした。
誰かが私の祝福を、薄めて、増やして、切り分けて……そして『正しく流れた』顔をしている。
「……帳簿は中立じゃない」
口から出た声が、自分のものに聞こえなかった。
ミロが頷く。
「嘘を刺せる」
その言葉に、胸が揺れた。
私は長いあいだ、奇跡だけが真実だと思ってきた。光は嘘をつけない。だから奪われても仕方ないと。
でも今は違う。奇跡は数字から逃げない。逃げさせない。
囲みの中で、発令日が揃っているのが見えた。
何度もページをめくり直す。見落としを探す。けれど同じだ。
「同じ日です」
ミロが言った。
指が勝手に、手の甲の聖痕を隠そうとする。
やめた。
隠せば、私はまた戻る。
そのとき、扉の外で靴音が止まった。
会計室の空気が張りつめる。リーネが視線だけで合図を出し、見張り役が扉を開ける。
入ってきたのは、黒い外套の男だった。
騎士団長ルシアン。
近づきすぎない距離で、ただそこに立つ。
「ここは国庫だ。剣は抜けない」
リーネが先に言った。
「抜かない」
ルシアンの返事は短い。
私は立ち上がり、帳簿の端を押さえた。
逃げたくなる。頼んだら縛られる。頼った瞬間に、私は『保護』の名で箱に入れられる。
誤解だとわかっていても、身体が覚えている。
それでも口を開いた。
「……証人になってください」
ミロが目を見開く。
リーネは何も言わない。言わないことで、責任を私に返した。
ルシアンの視線が、私の顔に触れた。
「護衛ではない。……証人だ」
差し出した紙は、私の震えを隠さない。
署名欄は空白だ。空白のままでは、誰かが好きな名前を入れる。
「それは、命令ですか」
言ってしまってから、息が止まった。
「違う」
ルシアンが即座に否定する。
「決めるのは君だ。俺は、隣にいる」
隣。
檻の言葉じゃない。
けれど、甘い言葉でもない。
制度の中で、私が立つ場所を残す言い方だ。
「なら、名で呼んで。『聖女』じゃなく、私を」
ルシアンの喉が動く。
「セレスティナ」
名前は、手首に巻かれた鎖を外すみたいに軽かった。
それだけで泣きそうになる自分が嫌で、私は紙を見た。
ルシアンが署名する。
インクの匂いが強くなる。文字の形が整い、紙が落ち着いた。
その背後で、ミロが小さく息を吸い、盛大に紙を落とした。
計算用紙が床に散り、拾おうとして固まる。
「……すみません。数字は裏切りません!」
ルシアンが無言で屈み、紙を拾ってミロの腕に戻した。
ミロの耳が真っ赤になり、リーネが咳払いで空気を切り替える。
「続ける。時間が無い」
書面室へ移る。
印面照合机には、名義ごとの印の写しが束ねられ、日付札が挟まっていた。綴じ紐は硬い。ほどけば音が出る。だからこそ、触れた痕が残る。
ミロが帳簿の該当日付を抜き、印面の写しを並べた。
紙の上で、線が繋がっていく。
同じ名義が、同じ日に動く。
私の手の甲が、微かに疼いた。
封蝋の匂いに反応する、嫌な熱。
「……同じ名義が、同じ日に……」
ミロが呟く。
印面の欄に刻まれた文字を、私は声に出さず読んだ。
監督官長名義。
机の端にある参照欄に、細い数字がぶら下がっている。
ミロが反射で、紙片に書き写した。
「条文番号だけ控えておきます」
その癖が、今は頼もしい。
私は帳簿に指を置いた。
冷たい紙が、刃みたいに正しい。
「監督官長の印を自由に使える手は……本人だけのはずだ」
言い切った途端、室内の空気が重くなる。
リーネが口を引き結び、ルシアンが視線だけで扉の外を測る。
「じゃあ、誰が」
答えは無い。
けれど疑問だけは、紙に残った。
ここまでお読みいただきありがとうございます。『監督官長の印』の正体、次話で一気に追います。続きが気になったら、広告下の【☆☆☆☆☆】評価とブックマークで応援いただけると励みになります。




