第41話 鍵の音、名義の熱
封蝋の匂いが廊下から流れ込んだ瞬間、手の甲の刻印が焼けた。
痛みは遅れて来る。遅れて来るから、逃げる場所も考える余裕がなくて、私は布団の端を握り潰した。
「……封蝋で、熱が走るの」
ミロの声は小さい。
神殿の医務小室は白い。白すぎて、隠してきたものまで浮き上がる気がする。
私は反射で手を引く。見せたら罰が来る、と身体が先に信じている。
けれど、隠しても熱は消えない。
封蝋の匂いが濃くなるほど、刻印は皮膚の下で爪を立てる。
「大丈夫です」
口が勝手に言う。いつもの「はい」が形を変えただけの言葉。
ルシアンは枕元に立ったまま、手を伸ばさない。
近づいてくれない。触れてもくれない。胸が冷える。
「熱が出る条件を言え」
その声は硬い。硬いから、切り捨てられる前触れに聞こえた。
沈黙が癖だ。沈黙は安全だ。そう刷り込まれてきた。
でも、いま黙れば、また私の外で何かが決まる。
私は息を吸う。浅くなる息を、喉の奥で押し戻す。
そして、隠していた手を膝の上でひらいた。
花弁の輪郭が、布越しに熱い。
「匂いが来ると……熱が走ります」
声が震えた。言った瞬間、肩の力が抜ける。怖いのに、息が入った。
ミロが紙束を抱えたまま頷く。目が真剣で、私を道具として見ていない。
ルシアンは私の手を見ない。見ないまま、医務係に短く告げた。
「記録を取れ。刻印の反応は証拠になる」
証拠。罰の言葉だと思っていた。
でも、彼は罰を作りたいのではなく、罰を無効にしたいのだと、声の向きでわかる。
「動けますか」
ルシアンが私を見る。問い方が命令じゃない。
頷くだけだと癖に戻る。私は首の動きより先に言葉を出した。
「行きます。……深部を見ます」
言えた。自分の口で行き先を決めた。
ミロの指が紙の端で忙しく動く。小さなメモ。数字だけが並ぶ紙片を、彼は握り締めていた。
次に廊下を通った封蝋の匂いで、刻印がまた熱を返した。
私は恐怖で縮む代わりに、その熱を覚えようとした。
書面室の申請卓は、机が低いのに、空気だけが高い。
監督官は私を見る前に、私の背後を見た。護衛の存在を数える目。
「公務のみだ」
切り落とすような声。善意の規則が、檻の形をしている。
私は口を開きかけて、息が詰まった。過去の癖が喉を塞ぐ。
そこへミロが前に出る。作法どおりに頭を下げて、紙片を出した。
「閲覧根拠は、条文……えっと、F05、ではなく……こちらです」
言い直すほど早口になる。
「息をしてから話せ」
監督官が淡々と言う。怒鳴らないのが怖い。
ミロが真っ赤になって息を吸い、今度は落ち着いた声で番号を告げる。
監督官の視線が、紙片から私の手へ移った。隠せ、と命じられた気がして、指が縮む。
「深部は許可制だ。立会い、記録、写しは3通。封印の扱いは俺の指示に従え」
机の端に赤い印が置かれる。差し戻し用の色。拒否の色。
私はその赤を見て、昔の檻を思い出しそうになった。
けれど、ルシアンの声が背後から落ちる。
「立会いは俺が付く。署名もする」
護衛ではなく、証人として。
私の胸が痛む。近づいてほしいのに、近づかれたら噂が刃になる。
それでも私は、赤い印の横へ手を伸ばした。
「条件は受けます。……ただ、触れるのは私です」
言うとき、息が浅くなった。でも、言い切った。
監督官が私を見た。長い沈黙。次に、封蝋を押す音がした。
匂いが立ち上る。同時に刻印が、薄く熱を返す。
私は反射で手を引きかけて、止めた。熱は罰ではなく、方角なのだと信じたい。
ミロが小声で言う。
「……番号、控えました」
その震えた声が、私の背中を支えた。
封印扉の前は冷える。石が冷たいのではなく、空気が冷たい。
鍵束が鳴る。じゃらり、と短い金属音。
その音が胸に刺さった。解放の音ではない。管理の音だ。
私は肩がすくむ。拘束具の鍵。回収の鍵。戻れと言う鍵。
目の前の鍵も同じだと、身体が勝手に決めつける。
だからこそ、言わないとまた飲まれる。
「……鍵の音が、嫌です」
口から漏れて、私は驚いた。嫌だと言っていいのだと、まだ慣れていない。
ルシアンが私の隣で止まる。いつも少しだけ距離を残した位置。
それが冷たさではなく、私の退路だと、やっと理解できる。
監督官が鍵を差し込み、封印の線を確かめる。
ルシアンの手が腰へ伸びかけて、止まる。剣は抜けない場所だ。
代わりに彼は、紙束を受け取った。
「抜けない剣より、抜けない記録を作る」
監督官が眉を動かす。
ルシアンは立会い欄へ署名を入れる。黒い手袋と、確かな筆圧。
私は喉の奥が熱くなる。守られているのに、息が浅い。
それは檻の匂いなのか、怖さの癖なのか、わからない。
でも確認しないと前に進めない。私は言った。
「……それは、命令ですか」
「違う。決めるのは君だ。俺は、隣にいる」
短い。余計な飾りがない。だから刺さる。
胸の奥の鎖が少しだけ緩むのを感じた。
条件が出せる。お願いではなく、私のための条件が。
「なら、名で呼んで。聖女じゃなく、私を」
声が震えた。でも、引かない。
ルシアンの目が私を捉える。氷のように静かな目が、いまは逃がさない。
「セレスティナ」
その2音で、私は立てた。鍵の音の恐怖が、少し薄くなる。
扉が開く。冷気に混じって封蝋の匂いが流れ、刻印が焼ける前兆で疼いた。
刻印確認の石卓には、封蝋台帳が並んでいた。
印面の記録。押された痕の列。紙の上に、権威が固まっている。
私は指先を伸ばし、最初の印に触れた。
焼ける。喉の奥まで熱が上がり、目の前が白くなる。
罰だ、と身体が叫ぶ。引け、と癖が命じる。
私は歯を食いしばり、指を残した。
痛みの形が、ただ痛いだけではなく、輪郭を持っている。
花弁の刻印が、別の花弁へ重なるみたいに、熱が揃う。
「熱の形が……同じです」
ミロが息を殺して言う。紙に線を引く音が、やけに大きい。
私は次の印へ指を滑らせた。熱は来ない。
その次も、来ない。胸が不安で膨らむ。
間違いだったら、私はまた罰に戻る。
もう少しだけ。次の印へ。
そこで、また焼けた。さっきと同じ輪郭で。
台帳の欄外に小さく記されている文字が目に入る。
監督官長名義。
文字を追った瞬間、熱が遅れて追いかけて来た。
匂いでもなく、紙の質でもなく、印面の名義にだけ反応している。
私は息を吐く。震えが止まらないのに、怖さだけではない。
「……紙が私を縛るなら、紙でほどきます」
ルシアンが私の背後で、また署名を置く音がした。
近づかないまま、逃げ道を塞ぐ音。
私は石卓の上で指を握り、熱の輪郭を記憶に刻む。
そして、最後の印面へ触れた。
熱は来ない。
来ないことで、答えが出た。
刻印が焼けたのは――監督官長名義の印面だけだった。
読了ありがとうございます。鍵の音に怯えながらも、セレスティナが「名」で立ち上がる回でした。監督官長名義の熱――三日後の評議までに真相へ辿り着けるのか。続きが気になったら、ブックマーク&広告下の【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると次話の力になります。感想も大歓迎です。




