第40話 救う順番、折れる膝
「全員は無理です」
施療所の奥から飛んできた言葉が、朝の空気を裂いた。
泣き声と怒鳴り声が混ざり、濡れた布の匂いが喉に張り付く。私の口は反射で「はい」を作りかけて、噛み潰した。
入口の板戸が揺れるたび、列が押し寄せる。木札の角が肘に当たり、削れた番号が見えないまま握り締められていた。
薄い包帯は棚の底が透け、薬草の籠は空に近い。湯を沸かす鍋も足りず、布は洗っても乾かない。足りない、が全部ここにある。
寝台は布切れで区切られ、そこに人が詰め込まれている。咳の湿った音、吐息の浅さ。誰かの「お願いだ」がいくつも重なる。
全員は無理。そう言われた瞬間から、ここは施療所じゃなく、順番という刃の台になった。
私は深く息を吸う。息が浅いままだと、また戻る癖が出る。
器に戻る。言われた順に、黙って差し出す。
――違う。
「……はい。今度は、私が決めます」
声は震えた。でも、飲み込まなかった。
手の甲の刻印が、じくりと熱を持つ。あの熱は優しい光じゃない。規則と封蝋の匂いに似た、硬い熱だ。
「ミロ、歩ける人には水を。奥は私がやる。あと、包帯の残り、数えて紙に残して」
「……はい。あ、いえ。はい」
ミロは胸の通行札を揺らしながら頷き、筆を握り直す。小さすぎる字で、真剣に数を刻もうとする。
私は寝台の間を抜け、まず呼吸が荒い男の胸に手を当てた。肋が内側で軋む感覚が指先に伝わる。
祝福を流す。白い光が薄く広がり、男の息が少し整う。
次の寝台では少女が腕を押さえて身を丸めていた。布の隙間から覗く指は紫に近い。
傷を閉じる。痛みを鈍らせる。呼吸の道を確保する。ここでは全部が同じ重さで降ってくる。
奥の端、子どもが泣きもせず目だけを開けていた。唇が青い。
順番。――順番。
胸の奥が掴まれる。誰かが「先に」と言うたび、私は罰の音を思い出す。
助けてと言った瞬間に鎖が鳴る。鍵が遠のく。叩かれる。暗い部屋の匂い。
私は目を逸らさないまま、次の手を伸ばした。
子どもの額に触れる。冷たい。祝福が細い糸みたいに指から抜ける。
光は出た。けれど、薄い。水面の膜みたいに、すぐ破れそうだ。
その瞬間、刻印が熱く跳ねた。
私は呼吸を詰め、手を引っ込めそうになる。
……やめない。
外が騒がしい。叫び声が近い。板戸がまた揺れた。
布の隙間から入口が見える。黒い外套が動線の真ん中に立っていた。ルシアンは剣に触れない。触れないまま、人の流れを切り分けている。
入口の左に軽症、右に重症。出口は奥の小戸。待機は壁際。声は短い、でも通る。
「押すな。入口を潰すな。――死ぬ」
命令じゃない。事実だけが落ちた。人の肩が少し引いた。
「聖女様だろ……なら、うちからだ!」
町の代表らしい男が木札を突き出す。指の関節が赤い。
「うちの婆さんが、今にも……!」
「順番なんて、死人には関係ない!」
別の男が怒鳴り、列が崩れかける。木札が床に落ち、踏まれた音がした。
監督官が記録板を抱えて、冷えた声で割り込む。
「順番は記録されます」
その言葉が油だった。怒りが、私ではなく紙へ向きかける。けれど次の瞬間、矛先はまた私へ戻る。
「記録? じゃあ書けよ、聖女様が救わなかったって!」
誰かの声が刺さった。
私は奥で手を動かしながら、その声が背骨を撫でるのを感じた。
救わなかった。助けられなかった。足りなかった。
いつも、その罪を私が着る。
布の外で、短い靴音が位置を変える。ルシアンが監督官の横へ寄り、声を落としたのが聞こえた。
「名は残すな。時間と症状だけにしろ」
「救済は記録で成立します」
「成立させる。だから形を変える」
言葉の刃がぶつかる。剣は抜かれないのに、空気だけが張り詰める。
ルシアンの視線が1度だけ、奥へ刺さる。
「中、今どこまでだ」
言葉は私に向いていないのに、私の胸だけが反応する。隣が、ここにある。
私は最後の寝台の男に祝福を流し、歯を食いしばった。
手足が冷える。指先が自分のものじゃないみたいに遠い。光が細くなる。
助けたい。助けたいのに、息が足りない。
視界の端が白く滲んで、天井の梁が揺れた。
私は膝を曲げないように立つ。立っていれば、まだ器じゃない。
でも、立っているだけじゃ救えない。救うには手が要る。息が要る。体が要る。
次の寝台。胸が上下しない。
私は震える指で、喉元に触れた。脈が弱い。
祝福を流す。流せ、流せ、と心の奥が叫ぶ。
光は、出た。
出たのに、遅い。遠い。届くまでに時間がかかる。
私の中のどこかが乾いて、擦り切れる。
足首がすっと軽くなった。
床が近い。近すぎる。
膝が折れた。
倒れそうな私の体が、硬い腕に受け止められる。布と革と、遠い雪の匂い。
抱き上げられた、と理解した瞬間、喉が締まる。囲われる。運ばれる。戻される。
「違う」
ルシアンの声が、耳の近くで低く鳴った。
「救護の手順だ。君が倒れる前に、俺を使え」
その言葉は甘くない。逃げ道の言葉だ。
私は息を吐く。吐けたぶんだけ、怖さが形になる。
監督官が近づき、筆を止めないまま言う。
「署名は明朝まで。遅れれば配分は止まります」
救う言葉で、奪う。
刻印がまた熱を持ち、皮膚の内側が灼けた。
私はルシアンの外套の端を掴みかけて、指をほどいた。掴んだら鎖になる気がした。
代わりに、喉の奥から絞る。
「……助けたい。……それだけは、私の罪にしないで」
彼は答えない。ただ、入口から見えない場所へ私を運ぶ。
外套が風を切り、視界の揺れが少しだけ減った。配置を変えるだけで、世界の音が遠のく。
裏の壁際に下ろされる。背中が石に当たり、冷たさが骨まで来る。
私は手の甲を見た。熱い。熱すぎる。
ミロが駆け寄り、濡らした布を当てた。
「……冷やします。いま、ここ」
布の冷たさが染みるのに、熱は引かない。むしろ輪郭だけが濃くなる。
私は息を吸おうとして、空気が入らないことに気づく。
祝福を出そうとした。さっきと同じように。
でも、指先から何も出ない。
「……でない……?」
声が、喉の奥で折れる。
ミロが布の端を押さえたまま、目を見開いた。
「……形が……ちがう」
ぼんやりした視界の中で、刻印の輪郭が、いつもの花弁じゃなくなっていく。
焦げ跡みたいに線が伸びる。
文字みたいに。誰かの名みたいに。
見知らぬ名の形に、寄っていく。
私は祝福を出せない。――倒れた刻印だけが、見知らぬ名の形に灼けていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。祝福が出ない、刻印が名へ寄る――次話で真相が一気に動きます。続きが気になったら、広告下の【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆評価】で応援して頂けると執筆の燃料になります。




