第39話 野営の湯、毛布の山
「湯は公務……監督官、記録していい」
焚き火が弾け、乾いた火花が夜へ散った。私は馬車の脇に敷かれた毛布の端に座り、指先を握り込む。
冷たい。骨まで冷えたみたいに、関節が言うことを聞かない。
少し離れた場所で監督官が紙を押さえた。羽根が走る音が、湯気より先に立つ。
温める手順まで記録に残る。
休めるはずの野営が、鎖の形に組み直されていく。
湯を飲む角度まで、正しさの名で整えられる。
救いのため、と言われるほど、私の呼吸は窮屈になる。
それでも焚き火の熱は本物だった。だから余計に怖い。
ルシアンは私を見ない。見れば私情になるから、という顔で、視線は警戒線と灯りの配置だけを追う。
けれど毛布は、私の足元へ静かに増えていく。
「は、はい! えっと、衛生……衛生……」
ミロが言い直した拍子に、敬礼みたいな動きをした。
「湯を運ぶ。灯りは落とすな。記録が読めない」
「了解です!」
ルシアンが指先で地面をなぞり、線を引く。
線の内側。線の外側。
守りにも隔てにも見える、その境目。
「ここから先は線の内側だ……公務としてな」
線の向こうで、荷の音がした。包帯の束が薄い。薬草の袋も軽い。
ミロが小さく数え直し、すぐ顔を上げて笑った。笑う速さが、王都の癖のままだ。
ルシアンは灯りの位置を少しずらし、私の影に筆が届かないようにした。
休め、と命令はしない。
休める形だけを作る。
監督官の視線がこちらに滑る度、ルシアンは私の周りの物だけを動かす。人ではなく段取りを。
守りを命令に見せない、という無茶を、彼は当たり前の顔で続けた。
火のそばに寄ると、温度が肌に刺さった。熱いのに、指は動かない。
私は湯気の上がる椀を受け取ろうとして、手首が震えた。
指が固くて、縁を掴む感覚が薄い。
落とせば音が立つ。音が立てば記録が増える。
私は肩をすくめ、震えを笑いに変えようとして失敗した。
ルシアンの手が伸びた気配がして、止まる。
触れない。
代わりに毛布が置かれた。
「……寒いのは、手だけじゃない」
吐いた言葉が白く揺れた。自分の弱さをこぼしたみたいで、唇が噛みたくなる。
「なら、増やす……触らずに」
毛布がまた増える。1枚、また1枚。
私は思わず笑いそうになって、すぐ引っ込めた。笑ったら、私情になる。
なのに彼は、私情を公務の顔に塗り替えるのが上手い。
冷やし布を手の甲に当てた。
布の下、皮膚の奥が、火とは別の熱でざわつく。
胸の奥まで、その熱が登ってくる。
息が浅くなった。
救った瞬間の匂い。紙と印の匂い。焼けるみたいな痛み。
指が勝手に布を握り潰しそうになる。
「セレスティナ」
名前だけで止められた気がした。命令じゃない。呼び戻す音。
私は息を吸い直し、やっと言う。
「助けたいのに、助けるほど……怖くなる」
言い終えた瞬間、涙が出そうになって、視線を火へ落とした。
怖いのは罰じゃない。
怖いのは、また選べなくなること。
「怖いまま選べ。俺はその隣で、責任だけ引き受ける」
その言葉が、鎖の形を少し変えた。
檻じゃない。
隣だ。
「防寒は正義です!」
突然、毛布が降ってきた。
ミロが全力で積んでいる。真顔で、真剣で、手つきだけが忙しい。
「ちょ、ちょっと……私、荷物ですか」
「違います! 大事です!」
大事、の音が妙に真っ直ぐで、私は笑っていいのか困った。
笑いを飲み込んだ分だけ、喉が痛い。
ミロが椀を両手で差し出す。
「お湯を、どうぞ……!」
丁寧すぎる。
私は椀を受け取りながら、毛布の陰へ顔を寄せた。
「ミロ、息が王都の速さになってる」
ミロが耳まで赤くなる。
「こ、ここ王都じゃないのに……敬語が、抜けません……!」
その必死さが、段取りみたいに私を守っている。
丁寧にすれば安全だと信じてしまう、善意の癖。
ミロが声を落とした。
「……あの、報告書に……妙な短い文があって」
監督官の紙の上で、言葉が刃になる。
それでもミロは運んでしまう。
運ばないと、もっと危ないと分かっているから。
「何て」
「……次の宿場に、待ってる者がいるって」
言葉の端が、焚き火の熱より冷たかった。
待ってる者。助けを求める患者か、迎えの役人か。想像が広がる度、冷やし布の下が落ち着かない。
ミロは続きを言いかけて唇を噛んだ。余計な説明は紙に形を与える。
私は頷くだけで椀を口へ運び、湯を飲み下した。喉は温まっても、胸はまだ冷たい。
焚き火の音が急に遠くなった。
毛布の中が、狭くなる。
夜が深くなり、見張りの足音が交代した。
私は眠れないまま、毛布の山の底で耳を澄ます。
線の外側。
灯りの輪の端。
そこで声が落ちた。
「報告は上がる。――責は、誰が負う」
監督官の声は低い。善意の形をした硬さ。
紙に書けば正しくなる、と信じている硬さ。
「俺が負う」
ルシアンは言い訳をしない。
ただ置き場を決める。
責を負う、と言うのは、私の選択を否定することじゃない。
罰を受けるかもしれない未来を、私だけに背負わせないこと。
そう思えた瞬間、胸の奥の冷えが少しだけほどけた。
毛布の中で、私は息を止めた。
守られる、という言葉が檻に聞こえていた頃の私なら、今のやり取りでも震えただろう。
けれど今は違う。
彼は私の代わりに選ばない。
選んだ後の責だけを、引き受ける。
紙が叩かれた。
綴じる音。
その乾いた合図と同時に、冷やし布の下が熱く跳ねた。
私は目を開けない。
叫ばない。
音に気づかれたら、報告の文言が変わる。
熱はすぐ引いた。
風が向きを変え、紙に押された蝋の匂いが混じった煙が鼻をかすめる。
その匂いに似た熱が、さっきとは違う形で肌の奥に残った。
残ったのは、鼓動の速さと、胸の奥の不穏だけ。
次の宿場に、待ってる者がいる。
ここまでお読みいただきありがとうございます。野営の夜、毛布の山の下で芽生えた責を負うという言葉が、次の宿場でどう試されるのか――。続きが気になったら、広告下の【☆☆☆☆☆】評価とブックマークで応援いただけると励みになります。




