第38話 救済の列、刻印の熱
荷車を避けて進んだ先で、土の上に人が寝かされていた。薄い布。乾いた藁。包帯は足りず、薬草の匂いも弱い。ここが施療院分院の手前だと、誰もが言葉より先に顔で伝えてくる。
「聖女様だろ……なら、うちからだ」
腕をつかまれた。指先が震えている。震えの熱が、私の聖痕へ移るみたいで息が浅くなる。
列が、順番になってない。軽い咳の人の隣で、唇が紫の子が眠っている。泣き声の奥で、誰かが吐いている。
「刻限までに出立を。救済は資格で行われます」
乾いた声が割り込む。監督官が、記録卓を組み立てていた。封蝋の匂いが染みた手袋。通行札を指でなぞり、刻まれた刻限を私に見せる。
救わなければ死ぬ。救えば、通行札の規定に遅れる。
遅れれば、失効。戻される。帰る癖が、喉の奥で待っている。
黒い外套が、私の視界の端に入った。ルシアンは私の前に立たない。横に立つ。盾の形が、檻にならない距離。
町の代表らしい男が声を張る。
「順番? そんなの、死人には関係ない!」
「皆、同じ金を払ってるんだぞ!」
怒号が混ざり、誰かの肩がぶつかる。小さな子が泣き止んで、泣く力すら失った顔になる。
私の口は、いつもの返事を探す。
はい。
従え。
戻れ。
違う。
私は息を吸って、目を上げた。
視線を上げると罰が来る、と教えられてきたのに。土の上の命は、教えより重い。
「……列を作ります」
声が震えた。震えたまま、続けた。
「重い方から。今、呼吸が浅い方。血が止まらない方。熱で意識が飛びかけている方」
「聖女様、うちは!」
「うちの婆さんは!」
祈りの言葉が、要求の言葉に変わる。
私は胃が冷えた。ここで間違えれば、誰かが死ぬ。ここで従えば、私はまた器に戻る。
私の背後で、紙が擦れる音がした。
「……札、書きます。読める大きさで」
ミロが紙束を抱え、真面目な顔で木札を並べ始めた。筆先が細かく動く。細かすぎて、本人が読めないくらい。
「字が、小さすぎます」
私が小声で言うと、ミロは口の端を噛み、顔だけ赤くした。
監督官が、淡々と机を整える。
「記録が無ければ救済は無い」
救うための言葉なのに、鎖みたいに響いた。
救う順番まで奪われたら、私はまた器に戻る。
その言葉が胸の中で膨らみ、痛みになって、次の瞬間に口へ出た。
「救う順番まで奪われたら、私はまた器に戻ります」
ざわめきが揺れる。怒り。戸惑い。期待。
私はその全部の前で、手の甲を隠さない。
最初の患者に膝をつき、冷たい手を取る。皮膚は紙みたいに薄い。
祝福を流す、と決めるだけで胸の奥が冷える。出せば終わりではない。行き先がある。だからこそ、今ここへ流す。
淡い光が指先から滲んだ。呻きがほどけ、呼吸が深くなる。
助かった、と誰かが言う。
同時に、私の手の甲がきしんだ。
熱。焼ける前の予告みたいな、嫌な熱。
私は顔を上げず、次へ移った。重い方から。泣き声の奥へ。
祝福を重ねるたび、手足が冷える。息が浅くなる。私は倒れない。倒れるわけにはいかない。
けれど現実は、私の決意より先に足を引く。
包帯が足りない。薬草が薄い。ここへ届くはずのものが、届いていない。
救う前に、奪われている。
記録卓の方で、ルシアンと監督官が向かい合っていた。
ルシアンの声は低く、短い。
「記録は残す。だが、命の順は彼女が決める」
監督官の指が、通行札の刻限をまたなぞる。
「救済は資格で行われます。規定を外れれば、報告が上がる」
ルシアンは眉も動かさない。
「上げるなら、上げろ」
その言い方は剣じゃないのに、刃だった。
監督官のペン先が紙へ落ちる直前、ルシアンが続ける。
「その欄は、今は空けろ」
監督官の目が細くなる。
「救う言葉ほど、奪う時に便利だ」
私はその言葉で、背筋が冷えた。
守る手続きだと思っていたものが、救済の優先順位を奪う手続きに変わる。紙と印は、鎖にもなる。
遠くで、ミロが監督官へ頭を下げた。胸につけた通行札がぶらんと揺れて、監督官が無言で指先で直した。ミロは固まって、また礼だけは完璧に繰り返す。
笑いそうになって、私は笑えなかった。
この場で笑ったら、罰が来る気がした。
応急の救済を終えたころ、太陽が傾き始めていた。
怒号は疲労へ変わり、列はやっと列になった。ミロの札が、地面の命を縛るみたいに並ぶ。紙の鎖。木札の鎖。
私は最後の患者の額に触れ、熱を散らした。
その瞬間、手の甲の熱が跳ね上がった。
痛い。
痛みは罰に似ている。
私は立ち上がろうとして、膝がわずかに揺れた。
すぐ隣に、ルシアンの影が落ちる。
「君は、どこまでやる」
命令じゃない。確認だ。
止めないと言っている。私が選ぶ権利を守ると言っている。
その代わりに、矢面に立つ準備をしている。
私の喉が詰まる。助けたいのに、助けるほど怖くなる。
「……ここまでです」
震えたまま、私は言う。
「次は、分院で」
ルシアンが頷く。
「君を運ぶんじゃない。君の選択を、運ぶ」
その言葉が胸を叩いた。
檻じゃない。隣だ。
馬車が動き出し、車輪の振動が手の甲へ直に伝わった。
熱が消えない。
ミロが向かいの席で紙束を抱えたまま、私の手を見た。
「……熱、印の形です」
ミロは慌てて冷やし布を取り出し、結び目を作った。指が焦って絡まって、結び目がほどけない。ミロの耳まで赤くなる。
「待って、ほどけない……」
私は息を吐いて、布を受け取った。
冷たさが皮膚へ染みるのに、熱は奥で燃えている。
「救ったのに……どうして、罰が先に来るの」
言ってしまった瞬間、胃が冷えた。
言葉にしたら、現実になる気がした。
ミロが布の下を覗き込む。真面目な瞳が、紙より白くなる。
「……輪郭が、いつもの形じゃないです」
私は布を少しずらした。
花弁のはずの刻印の縁に、焦げ跡みたいな別の線が混じっている。封蝋の印面みたいな、硬い線。
ミロが震える指で、自分の紙束から端の紙を引き抜いた。そこには、薄い写しがある。さっき監督官の手元で、無意識に写したのだろう。
「この印面、見たこと……ある、気がします」
私の背中を、冷たいものが滑った。
王都優先の封蝋。あの匂い。
命令は、通行札の束だけじゃない。
熱が、ある印影にだけ焼けている。
それが意味するのは、命令が1枚ではない、ということだった。
読了ありがとうございます。救う順番を自分で選んだ代償として、刻印が別の印影に焼け始めました。隣で背負うと決めたルシアンの言葉が、ここから効いてきます。次話、誰の印なのかが見えてきます。
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