第36話 買い手の匂い、救済の顔で近づく手
「……寄進、ですか」
国庫の小部屋は紙と乾いた墨の匂いがした。けれど今、鼻の奥に残っているのは別の匂いだ。綺麗な言葉の皮をかぶった、刃の匂い。
机の向こうでミロが帳簿の頁を押さえたまま顔を上げる。
「寄進って、助けになるはずなのにね」
「助けの顔で近づく手ほど、怖いものはありません」
私の手の甲の聖痕が、薄く熱を持った気がした。光は私に嘘をつかない。嘘をつくのは、人だ。
ミロは指先で欄を辿り、声を落とす。
「施療院支援。名目はそれ。入金の経路は綺麗。けど……受領印の並びが同じです」
紙の上の印は、同じ向きで揃いすぎている。整いすぎた善意は、いつも誰かの都合に似る。
私は喉の奥が苦くなるのを飲み込み、帳簿の端を指で押さえた。破りたい衝動が、指先にまで来る。けれど、この紙を破ったら、相手は笑う。記録を消して救う顔を保てるから。
「買い手の線、ここで隠してる」
「帳簿は、いい顔をしません」
ミロが笑おうとして、途中でやめた。笑いの形だけ残る。
胸の奥に溜まっていたものが、言葉になる前に暴れる。
「……私は、売り物じゃない」
声が震えた。怒りなのか怖さなのか、区別がつかない。ただ、耐えたまま黙るのだけは嫌だった。
ミロが頁を閉じ、封蝋の写しを差し出した。昨夜、書記神官が付けた番号と印の位置が、几帳面に記されている。
「封蝋番号は生き残りました。触れた痕も。だから追えます。追う先が……救済の窓口ってだけで」
言葉の終わりが苦い。
「悪党の影じゃない。救う顔」
私が呟くと、ミロは短く頷いた。
「だから厄介。善意の盾を持てる。ここから先は、数字より言葉の戦いになります」
神殿の応接は静かだった。壁の白さが、こちらの汚れを映すみたいで息が詰まる。
大神官ディオニスは私の前に書類を置き、視線だけで続きを促した。
私は短く報告する。寄進名目、同じ印、受領印の揃いすぎた綺麗さ。通行札の再発行の穴が、寄進の流れと重なる気配。
ディオニスは頷きもせず、杖の先で書類の端を軽く叩いた。
「救う言葉ほど、奪う時に便利だ」
それだけで背中が冷えた。否定できないからだ。
「では、どう動きますか」
私が言うと、大神官はようやく視線を上げた。熱はない。けれど、逃げ道を消さない目だ。
「犯人探しは後だ。まず記録を固める。寄進の窓口へは触れるな。触れた瞬間に、善意の盾を持たれる」
「盾」
「正しさは盾にも鎖にもなる。……君は鎖を選ぶな」
反射で「はい」と言いそうになって、喉で止めた。代わりに、息を整えて言う。
「……聞きます。正しさで言います。だから、私の言葉も残してください」
大神官は僅かに頷いた。許可ではない。手順だ。
「次は旅だ」
ディオニスの言葉が落ちる。
「現場で、寄進の顔が何を買うかを見る。王都の都合が降りる前に、地方行きの手順を通せ」
期限の匂いがした。救済の顔は、急ぐほど良い顔になる。
応接を出ると、回廊の冷気が肌に触れた。灯りの間隔が広く、影が濃い。足音が吸われていく。
そこへ黒い外套が私の進路に滑り込む。
ルシアンだ。剣の柄に置かれた手が、神殿の規則を思い出したみたいに止まっている。
「今の顔、良くない」
「良い顔をする場面じゃありません」
私が強がると、彼は眉を寄せた。怒鳴らない。その代わり距離だけが詰まる。前ではなく、隣へ。私の言葉の場所を残したまま。
「……移動は俺が手順を通す。護衛も、記録も」
「それは命令ですか」
「違う」
短い否定が、剣みたいに鋭い。
「君を運ぶんじゃない。君の選択を、運ぶ」
その言葉で、胸の奥の暴れが止まった。代わりに涙が出そうになった。恥ずかしくて、目を逸らしそうになって、踏みとどまる。
私は唇を噛み、言葉を選んだ。甘い言葉を欲しがっているわけじゃない。欲しいのは、嘘をつかない形だ。
「……救済を名乗るなら、まず嘘をつかない形で来てください」
声はまだ震えている。でも、逃げない震えだ。
ルシアンは頷いた。
「君が言うなら、その形にする。俺の言葉で縛らない」
その言い方が、逆に胸に刺さる。縛らないと言われた瞬間、私は縛られていた場所を自覚してしまうからだ。
喉の奥が熱くなる。
「……私、助けてって言えない癖があります」
言えた。驚くほど、息が入る。
ルシアンの目が細くなる。触れない。けれど、逃げない。
「言えなくても、君の沈黙を利用させない」
出発準備の廊下は、紙の山だった。机の上だけじゃ足りず、壁際にも束が積まれている。
ミロが腕に抱えた追跡メモを追加しようとして、紙が滑った。
ばさ、と乾いた雪が降るみたいに束が床へ崩れた。
「……今、雪でした?」
ミロが真顔で呟き、私の口元が勝手に緩む。笑っていいのか分からないまま、それでも呼吸が戻る。
私は床に散らばった通行札の束を集め、印を確かめた。ここで間違えたら、次の土地でまた穴が開く。
封蝋は硬く、指先に冷たい。
ミロが欄外に細い字で番号を足していく。
「印の位置と番号、セットで。……覚えました」
「その癖、助かります」
束の途中に、薄い布に包まれた札が混じっていた。触れた瞬間、違和感が皮膚を刺す。封蝋の縁が新しい。押したばかりの硬さだ。
私は布をほどき、印を見た。
寄進の印だった。
国庫で見た写しと同じ形。救済の顔が、ここまで先回りしている。
背中を冷たいものが走る。
買い手は外から来る影じゃない。旅の入口で、もう通行札を撫でている。
札の裏に、細い字で私の名が書かれていた。同行者。施療院支援の視察団に、私が組み込まれている。
胸の奥が、きゅっと縮む。呼吸が浅くなる。保護、救済、視察。どれも綺麗な言葉なのに、私を運ぶための箱になる。
ミロが紙の雪を踏まないようにそっと近づき、札を覗き込んだ。
「……先に、道を作ってる」
いつも落ち着いた声が掠れている。
「私のため、って顔で」
「顔が良すぎます。だから、通せる。だから、奪える」
ミロが唇を噛み、すぐに欄外へ番号を書き足した。手が震えても、字だけは崩れない。
私は札を握りしめた。封蝋の硬さが掌に食い込む。
売られかけているのは、私の体じゃない。私の選ぶ権利だ。
遠くで靴音が近づき、止まる。ルシアンの気配だけで分かった。
私は振り向かないまま、札を差し出した。
「……寄進の封蝋印が、私の通行札に押されています」
読了ありがとうございます。救済を名乗る手が、通行札にまで触れていた――ここから「誰が、誰の名で」動かすのかが勝負になります。次話、地方行きの手順が間に合うのか。続きが気になったら、ブックマーク&広告下の☆☆☆☆☆評価で応援いただけると励みになります。ひと言感想も大歓迎です。




