第35話 写しの救済、封蝋番号が生き残る
封筒の赤い封蝋に、細い裂け目が走っていた。
「封蝋が裂けてる」
国庫実務官の淡々とした声が、机の上の空気だけを冷やす。
私は息が止まった。紙が破れたことより、破れたまま残されている事実が怖い。消されたのではなく、消せなかった。……なら、誰かが触れた。
指ぬき手袋の指先が、番号をなぞる。封蝋の粉が白く付いている。
「番号が残っている。つまり、開けた者がいる」
その言葉で、胸の奥がきしんだ。
私はずっと、消えることに慣らされてきた。存在したと証明できない形で。祝福も、痛みも、私の時間も。だから今、裂け目は刃だ。私の喉に当たる刃。
けれど同時に、裂け目は印だ。
触れた指だけが、残る。
……数刻前。
写し作成室は、紙の匂いと封蝋の甘い熱で満ちていた。
書記が整えた机の上に、欠片の目録が置かれている。欠片そのものは別置きの箱に入り、鍵は監督官の腰にある。私は箱を見ないようにした。見れば、また怖さが戻ってしまうから。
ミロが羽根ペンを握る。いつもより真剣で、息が浅い。
「写し、3通。目録も3枚。封蝋番号も……ええと」
彼は数字を口の中で転がし、メモ紙へ写す。小さな癖だ。条文番号を控えていた癖が、いま命綱に変わる。
ミロは封蝋番号を何度も数え直し、印の位置までメモした。最後は自分の指を眺めて真顔で止まり、恥ずかしそうに咳払いをした。
「落ち着け」
ルシアンの声は背中から届いた。剣の柄ではなく、紙の角を押さえる手が見えた。
守り方が、変わっている。
ミロは頷き、咳払いで自分を整えた。
「封蝋番号、付けます」
書記が赤い封蝋を落とし、熱で柔らかくして封筒へ押し当てる。印が沈み、乾く。番号が、封筒の端へ記される。たったそれだけの作業が、私の背骨になる。
私は封筒を受け取った瞬間、指先が震えた。
「……これが、私を守るんですか」
自分の声が、思ったより硬い。
ルシアンは私を見ない。視線を合わせれば、噂が材料になる。だから彼は、手順を見る。
「抜けない剣より、抜けない記録を作る」
短い言葉なのに、胸が熱くなる。――守られることが檻だと思っていた私の中で、なにかがずれる。
檻ではなく、逃げ道。
その逃げ道は、紙の角みたいに薄い。
回廊へ出た瞬間、神殿の冷気が肌へ刺さった。
灯りは疎らで、影が長い。誰かが近づく足音がするだけで、昔の癖が喉に蘇る。はい、と言ってしまえば楽になる。
けれど、今日は違う。
手の中にあるのは、私の言葉じゃない。私の記録だ。
角を曲がったところで、黒衣の男が道を塞いだ。神官服に似ているが、祈りの匂いがしない。
「その封筒を、こちらへ」
命令に近い声。私の指が反射で緩みかける。
ルシアンが、剣に触れかけて止めた。
「ここは流血禁止だ」
その言葉は相手への牽制ではなく、私への合図だった。
暴力の代わりに、手順で締める。
「立会いを呼べ」
ルシアンが近くの門番へ目線だけを投げる。
「記録簿を」
門番が走る。黒衣の男の眉がわずかに動いた。
焦り。ここで騒ぎが大きくなれば、触れた痕が残る。
私は喉の奥の震えを押し込め、息を吸った。
「……私のせいにさせない。……紙にも、あなたにも」
言い切った瞬間、足が震えた。怖いのに、戻らない。
ルシアンが私の横に立ち、距離は詰めないまま、退路だけを作る。
「封筒は国庫の確認卓へ運ぶ。ここで触れたら、その場で記録する」
黒衣の男は視線を逸らした。命令の顔が、途端に薄くなる。
門番と監督官が来た。記録簿が開かれ、羽根ペンが走る。
名前、時刻、封蝋番号。
書かれた瞬間、空気が変わった。噂より先に、紙が口を開く。
その直後だった。
監督官が封筒を受け取ろうとした指先で、封蝋の端に引っかかった。
「……裂けてる」
乾いた声。私の内側が冷える。
誰かが、どこかで、すでに触れている。
私は目の前が暗くなりかけた。
消された。消される。消されたことにされる。
そこで、ミロが小さく息を吐いた。
「番号……生きてます。生きてます!」
明るさが混じった声。勝った瞬間に喜びそうになって、咳払いで誤魔化したのが分かった。
監督官が封蝋番号を読み、門番が復唱する。私も口の中で同じ音をなぞる。
裂け目があっても、番号は消えていない。
裂け目は嘘をつけない。――触れた指だけが残る。
だから私たちは、国庫へ運んだ。
いま。
机の上に並ぶ封筒は3通。裂け目のあるもの、ないもの。目録の紙。受領印欄。
国庫実務官は封蝋番号を指で追い、封筒の重さを確かめるように押さえた。
「開けたのは、この通だ」
私の胃がきゅっと縮む。
「中身は、ありますか」
声が震えそうになる。震えたら、また弱いと言われる。
「ある。だが、触れた痕が残る」
実務官は封筒を開けない。開ける前に、開けられた事実を固定する。
私が求めていたのは、それだ。正しさを、形にすること。
ミロが写しの束から、該当する行だけを机へ並べた。
増えた流量。空白の受領印。封蝋番号の並び。
「この行だけ、息をしていない」
実務官の声が、刃みたいに静かだった。
「受領印と封蝋番号が無い数字は、存在しない」
私は唇を噛む。存在しない。つまり、作られた。
そのとき、実務官が別の帳簿を引き寄せた。寄進の欄。救済の名目。
「買い取りの噂と、寄進の入金日が同じだ」
ミロが目を見開く。
「寄進って……救う側の言葉ですよね」
私は喉が渇いた。救う言葉ほど、奪う時に便利だ。
実務官は引き出しから、束ねた通行札を出した。明日の移送手順に必要な札だ。
その束の端に、赤い封蝋の印が混じっている。
札の端に押された小さな番号は、控え帳の棚で見た書き方と同じだった。
刻まれているのは、寄進。
私の手の甲の聖痕が、じくりと熱を持った。
欠片を欲しがる買い手は、外の悪党じゃない。
寄進の顔で、ここまで来ている。
読了ありがとうございます。封蝋番号が残ったのは、誰かが触れた証拠。『寄進』の仮面を被る手が、神殿の中にあります。次話、名義と札を突き合わせて正体へ。
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