第33話 保管庫、奪われないのに崩れる
欠片は、ある。――なのに、崩れてる。
神殿庫の扉の前で私はそう思って、息を飲んだ。白い封蝋は割れていない。回覧印も押されたまま。けれど、封蝋だけがほんの少しだけずれている。誰かの爪が縁をなぞったみたいに、艶が違った。
「封蝋番号、1047。面会簿、照合します」
門番が抑えた声で言う。数字が空気を固める。私の名も、今日の目的も、全部が記録の形で吊られている。
監督官エルヴァンは朱筆を持ったまま私を見ない。
「立会いは増やす。触れた瞬間に、争点になる」
「はい」
返事が反射で出て、喉の奥が痛い。はい、と言えば安全だった頃の癖がまだ残っている。
鍵束が鳴った。今日は解放の音じゃない。管理の音だ。
私は手袋の上から手の甲の聖痕を押さえ、扉が開くのを待った。
扉が重く動き、冷えた空気が流れ出す。立会いの神官が先に入り、灯りを上げた。
私は棚へ向かう。欠片は、私が私だと言うための最後の硬いものだ。奪われたら終わる。けれど、奪われなくても終わる形がある。
棚に置かれた箱は、そこにあった。
私は胸の奥の緊張がほどける前に、止まった。箱の位置が違う。昨日、ミロと確認した棚の段ではない。隣の棚に、同じ箱が移されている。
「……違う」
声が漏れた。立会いの神官の視線が背に刺さる。
私は箱に触れないまま、目だけで封蝋と札を追う。番号は合っている。封蝋も割れていない。なのに、箱は移動している。
欠片は、ある。――なのに、崩れてる。
今度は胸の中で繰り返した。守るべき物が残っているのに、守るはずの信用が崩れる音がする。
「監督官、記録を」
私は振り返り、エルヴァンを呼んだ。自分の声が思ったより冷たくて、少し安心した。泣いたり怒鳴ったりしたら、そこだけ切り取られて利用される。
エルヴァンが庫内へ入り、箱の周囲を布越しに確かめた。
「割れはない。……だが、位置が違う。門番、時刻。立会い、全員の名」
淡々とした指示が、私の呼吸を支えた。冷たい正しさは、檻にもなる。けれど今日は、武器にもなる。
庫を出ると、足音が近づいた。
ミロが走ってきて、息を整えながら敬礼しかけ――指先がべたべたのままだと気づいて固まった。
エルヴァンが無言で布を差し出す。ミロは真っ赤になって受け取り、耳まで赤いまま小声で言った。
「床に、これが……」
布の上に乗っているのは、通行札の切れ端だった。紙の角が裂け、封蝋の欠片が付いている。
「番号が……合わないんです。合わないのが、いちばんまずい」
ミロが震える指で示す。表に見える番号は、庫前で照合した控えと噛み合わない。けれど紙を裏返した瞬間、別の数字があった。内側の番号。持ち主の名に紐づくはずの、内側だけの印。
背中が冷えた。外からの侵入じゃない。中の運用が、穴になっている。
「誰かを疑うより先に、紙が勝手に喋る」
ミロが言った。強がりみたいで、でも正しい。
私は切れ端を見つめ、口の中が乾くのを感じた。欠片を奪えないなら、証明を壊す。そういう手がある。
私は施療院宛の報告書を受け取り、控え室の机に向かった。公文は、誰かの目が通る前提で書く。だからこそ、嘘が混ざりにくい形にする。
筆先が紙を擦る音だけが、部屋に残る。
封蝋の位置。箱の棚。立会いの名。時刻。通行札の切れ端。内側の番号。私は事実だけを並べた。感情は書かない。感情は、相手に渡すと武器になる。
最後の行に署名し、封を閉じようとして――余白に目が止まった。
欄外に、短い字で文がある。公務文書のはずなのに、そこだけ温度が違う。
君が選ぶなら、俺は隣にいる。
胸の奥が大きく揺れた。会えない。声も聞けない。なのに、書面にまで隣がいる。
私は返事を書けない。書いた瞬間に、誰かの餌になる。分かっているのに、指先が少しだけ震えた。
そのとき、まだ乾ききっていない報告書の端が、別の印で押さえられた。
見上げる前に、足音は遠ざかっている。誰の手。何の印。残るのは、紙の端の重さだけだった。
私は封を閉じ、報告書をミロへ渡す。
「写しを。封蝋番号も入れて」
「はい。……控えます」
ミロの声が小さくて、必死で、だから信用できた。
庫前へ戻ると、空気がさらに冷えていた。そこに、ディオニス大神官がいた。杖を床へ軽く当てるだけで、周囲の呼吸が揃う。
「状況は」
大神官は私を見ない。箱も見ない。記録を見る目をしている。
「欠片は残っています。封蝋も割れていません。けれど棚が移されています。通行札の切れ端が見つかりました。内側の番号があります」
私は短く言った。言葉を削るほど、怖さが減る気がした。
周囲の視線がざわつく。誰がやった、の空気が膨らむ。私もその流れへ吸われそうになる。
大神官が、温度のない声で切った。
「疑え。だが先に、書け」
そのひと言で、胸の中の怒りが別の形になる。殴りたいのは人じゃない。穴だ。運用だ。奪える形にした仕組みだ。
「……奪われたのは物じゃない。信用です」
言い切った瞬間、感情が跳ね上がった。怖い。悔しい。泣きたい。全部が同じ速さで来る。私は拳を握り、爪が手袋に食い込む痛みで踏みとどまった。
エルヴァンが口を開きかける。
「候補者区画への移送を強化し――」
「強化は、記録を増やすだけで穴を塞がない」
大神官が遮る。冷たいのに、私を守る形だ。
「札の控え帳を出せ。再発行の手順も。出入りの名を、内側番号で洗え」
ミロが通行札の切れ端を差し出した。指先はもう布で拭われている。それでも蝋の粘りが残り、紙が少しだけ波打つ。
大神官がその切れ端を受け取る。目が落ちる。ほんの少しだけ、眉が動いた。
知っている番号。
その違和感が、私の背中を刺した。大神官が知っているなら、この出入りは、もっと近い。
「通行札は……内側の番号でしたね」
私は喉の奥で言葉を整える。
「誰が、誰の名で出入りしたんですか」
答えはまだ落ちない。けれど疑問だけが、次の扉を叩く音になる。
読了ありがとうございます。欠片は残ったのに信用が崩れる――ここからが本当の戦場です。次は「誰が、誰の名で出入りしたのか」。続きが気になったらブックマークで追跡を。面白かったら広告下の【☆☆☆☆☆】で評価もぜひ。感想ひと言でも次話の推進力になります。




