第32話 提出期限、守るのは奇跡じゃなく手順
提出は3日後です。
ディオニス大神官の声は、紙の角みたいにまっすぐだった。机の上の申請書に、黒いインクが滲まない。ここでは奇跡の匂いさえ、手順に従う。
私は頷きかけて、喉で止めた。頷くだけなら簡単だ。昔の癖だ。――「はい」で全部、終わらせてきた。
「3日後の正午まで、提出先は国庫と神殿の共同窓口」
「……正午」
口に出しただけで胸の奥が冷えた。期限が首に触れてくる。守れなかったら、私のせいにされる。そう刷り込まれてきたから、時間という言葉は鎖の形をしている。
頭の中で父の声が勝手に響いた。間に合わないなら戻れ、と。間に合わないことが罪になる家で育った。だから期限は恐怖そのものだ。
でも今の私には、戻らないための形がある。手順にしがみつくのではなく、手順を握る。
「受益者同席、写しは3通、封蝋番号と目録を添えること」
淡々と言うだけなのに、責められている気がした。守れない、と同じ響きが含まれるからだ。私は指先を握り込み、手の甲の聖痕を隠す癖が出かけたのを止める。紙の前なら隠さなくていい。紙は嘘をつかない。触れた手順だけが残る。
扉の外で金具が鳴った。鍵束の音。近づけない距離にいるはずの男の気配が、紙越しに背中を支える。
ディオニスは視線を上げないまま、申請書の端を指で叩いた。
「立会い欄が空白なら、提出はただの紙です」
空白。その言葉が裂け目より鋭い。昨日まで私は、誓約の線を首輪だと思っていた。守られるほど、動けなくなると。
「公開できない形なら、守れません」
冷たい。けれど、冷たいからこそ逃げ道がある。情で守るなら情で奪われる。手順で守るなら、手順で追える。
「……わかりました、期限までに形にします」
言い切るのが怖かった。怖いのに、言い切った。喉の奥が熱くなる。
「期限は、奇跡で伸びません」
その硬さが、今はありがたい。胸が少しだけ落ち着く。
私は席を立った。扉の外の影へ視線を投げる前に、もう1度だけ机上の空白を見た。そこへ入る署名は、檻か盾か。まだ決めきれないまま。
国庫の確認机は灯りが明るすぎた。紙の白さが目に刺さる。私は写し3通を並べ、目録を重ね、封蝋番号の小札を添えた。国庫実務官の指ぬき手袋が番号を指先でなぞり、口の中で復唱しているのが見えた。
「番号は全部同じ、裂け目の記録も添付できる」
淡々とした声が妙に頼もしい。数字は感情に優しくない。優しくないから、言い訳を許さない。
ミロが封蝋を押す手を止め、深呼吸した。小声が裏返る。
「……数字、裏切らないですから」
胸ポケットに入れたはずのメモが、紙端だけ飛び出している。私は指でそっと押し込んだ。ミロは耳まで赤くして、咳払いで誤魔化す。
封蝋が固まる匂いがした。甘く焦げる匂い。前はそれが怖かった。今は、証拠が生きる匂いに思える。
「目録はここまで」
実務官が私の筆跡を見ずに言った。見るのは字ではなく、残る順番だけ。
その目録の最下段で、ミロの指が止まった。
「……欠片保管台帳?」
私はその文字列を見つめた。心臓が嫌な速さで脈を打つ。欠片。最後の証拠。言葉にすると重すぎるから、私は息だけ整えた。
息が浅くなる癖が戻りかけた。隠したいのは聖痕じゃない。怖さだ。怖さを見せたら、誰かが『弱い』の物語にしてしまう。だから私は目録の文字を指でなぞり、現実へ釘を打った。
「載るなら、追える」
自分に言い聞かせるみたいに呟いて、ペン先を握り直す。写し3通は、弱さのための武装だ。奪われても終わらないための分け方だ。
回廊は相変わらず冷えた。灯りが遠く、影が濃い。そこに立つ黒い外套は影に溶けない。
ルシアンは私の前に立たない。半歩だけ横へずれて、進路の角を消す。その位置取りが苦しいのに、息が入る。
「今日の護衛は、君の背じゃない――この書類だ」
彼は書類束を受け取り、立会い記録簿を開いた。私情ではなく肩書で守るための動き。監視の視線がある場所で、それを選ぶのがどれほど面倒で、どれほど優しいか。
ペン先が立会い欄の上で止まった。止まった理由は、剣が抜けないのと同じだ。動き方を誤れば、私の足元が崩れる。
胸が揺れた。守られると檻に入る。そう思い込んでいた癖が、また足首に絡む。
でも、彼は私を囲わない。
書類を挟んで、同じ方向を向く。
「その署名、私の帰らないを守ってくれる?」
声が震えた。震えたまま言えたのが私にとって大きすぎた。
ルシアンの目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「守る……紙の上で」
彼は署名を入れた。名前と肩書が黒い線になって残る。
胸の中で誓約の形が少しだけ変わった。首輪だったはずの線が、今は盾の縁に見える。完全じゃない。けれど、私が息をする余白ができる。
私は頷きそうになって、止めた。頷きは反射だ。言葉で残したい。
「ありがとう」
言った瞬間、監視の視線が刺さった気がして背筋が硬くなる。ルシアンは何も言わず、記録簿を閉じる音だけを残した。甘さはここでは声にできない。だから、音で残す。
「3日後、提出口の前で――」
彼はそこで言い切らなかった。約束は声より先に、署名で残っている。
保管庫前は空気が違った。扉が厚い。鍵束が重い。金具の音が、逃げ道の音じゃない。
国庫実務官が目録を受け取り、封蝋番号の札を確認した。机の端で鍵束がもう1度鳴る。
「保管庫の台帳が……動いています」
その言い方が背中を冷やした。動く。誰かが触れた。触れられた事実が証拠になると知ったばかりなのに、今は証拠そのものが動く。
ミロが小さく息を呑む。
「欠片、の欄ですか」
実務官は答えない。ただ、目録の最下段を指先で押さえた。欠片保管台帳の文字が灯りの下で黒く沈む。インクが新しい匂いを残しているのに、紙の縁は妙に綺麗だ。裂け目と同じ、丁寧すぎる気配。
「開けたら、戻せません」
鍵束が揺れ、金属が擦れる音がした。私の喉の奥で「はい」が形になりかける。戻れば楽。黙れば安全。古い癖が甘く囁く。
私は息を吸い直した。紙の上で作った盾を、ここで捨てたくない。
提出まであと3日。
その3日のうちに欠片が消えたら――私の監査は、また誰かの都合で終わる。
ここまでお読みくださりありがとうございます。欠片保管台帳が動いた理由、次話で扉が開きます。面白かった/続きが気になったら、広告下の【ブクマ】と【☆☆☆☆☆評価】で応援いただけると励みになります。




