第31話 封蝋の裂け目、写しの生存
封蝋の裂け目が、綺麗すぎた。
監督官バルドの机へ差し出した瞬間、私は息を吸い損ねた。赤い蝋の表面に、刃物で撫でたみたいな細い線が走っている。割れたのに、粉が落ちていない。乱れもない。戻した手つきだけが丁寧すぎる。
「……封蝋が違う」
私の声は、自分でも驚くほど乾いていた。
「どれ」
バルドは白い手袋の指先で封筒をつまみ、ゆっくり回す。袖口から、甘く焦げた蝋の匂いがした。神殿の匂いだ。ここは監督官室。つまり、神殿の喉の奥。
「提出用だな。封蝋番号は」
「写しにも、同じ番号を付けています」
隣でミロが、胸元のメモを押さえた。紙端が少しだけ飛び出している。完璧に隠したつもりの顔で、完璧に隠れていない。
私は視線を落としそうになる癖を、噛み殺した。落としたら、また「はい」を差し出してしまう。裂け目の前で黙ったら、私が壊したことにされる。
「この裂け目は、私が押したものではありません」
言い切った途端、喉の奥が熱くなった。怖い。けれど、怖いまま言えた。
バルドの目が細くなる。
「……誰かが開けた、と」
「誰か、です」
言い切ってしまうのが、怖かった。名指しは刃になる。ここで刃を振れば、返ってくるのは私だ。
バルドは封筒を机に置いた。丁寧に。丁寧すぎる音で。
「噂は罪ではない。罰の前触れだ」
淡々とした声が、冷水みたいに首筋を滑った。
私は、手の甲の聖痕を握り込みたくなる。けれど握れば震えが見える。見えた瞬間、弱さが材料にされる。
だから、指を開いた。裂け目を見つめたまま。
「受領は保留する。監督官印は付けない」
バルドが言った。
「手続きが崩れた以上、あなたの保護も同じだ。……理解しているな」
理解している。という言葉の形で、また鎖を渡される。胸が冷えた。
戻る癖が、足首を掴む。ここで引けば、今まで通りにできる。黙って、差し出して、誰かの都合で息をする。
そのとき、扉の外で靴音が止まった。
「止めろ」
低い声。剣が抜かれる気配はないのに、空気が硬くなる。
ルシアンが入ってきた。黒い外套。革と鉄と、遠い雪の匂い。
私の隣へ来ない。机と私の間に、紙を挟む距離で立つ。私を囲わないための位置取りだと分かるのが、少し苦しい。
「提出は正式手順だ。保留の根拠を記録に残せ」
「騎士団長殿、これは神殿の――」
「ならなおさらだ。封蝋の裂け目を見せろ」
バルドが封筒を差し出す。ルシアンの指が裂け目に触れかけ、止まった。触れれば、指紋が残る。彼は怒りを持っている。けれど、その怒りの置き場を選んでいる。
私は怖くて、思わず言った。
「怒らないで」
言ってから、胸が痛んだ。私はいつも、誰かの感情を止めて、自分の身を守ってきた。
ルシアンの視線が、ほんの少しだけ私へ落ちる。
「……怒り方を選ぶ」
短く言って、彼はバルドへ向き直った。
「抜けない剣より、抜けない記録を作る。立会いを増やす。証人も」
その言葉が、私の中の鎖を少しだけ緩めた。
剣では守れない場所で、この人は言葉と署名で守る。檻の鍵じゃない。逃げ道の鍵だ。
ミロが小声で、誰かの名前を復唱し始めた。
「国庫実務官……監督官補……書記……」
噛んだ。
「しょ、しょき……っ」
自分にだけ腹を立てた顔をして、耳まで赤くなる。
「落ち着いて。番号は1桁ずつだ」
バルドが丁寧語のまま、妙に実務的な助言を落とす。
場が、ほんの少しだけ現実に戻った。私は息が入るのを感じた。
「セレスティナ」
ルシアンが私の名を呼ぶ。肩書ではない。私の名。
「君の言葉は曲げさせない。……紙にも」
そこで言い切らず、彼は視線を机上へ戻した。私情を名目にされないように。
私は頷いた。頷くしかなかった。頷けるだけで、今までの私より進んでいる。
バルドは記録簿を引き寄せ、羽根ペンを取った。
「立会いを付ける。受領は、国庫側で照合後だ。写しはどうする」
「3通」
ミロが答えた。震える声なのに、言葉は真っ直ぐだった。
「封蝋番号と目録は、全部合わせています。……番号、控えました」
そのひと言が、鍵穴になった。
私が最も怖かったのは、紙が消えることじゃない。消えたことにされることだ。存在していた証拠を奪われることだ。
ルシアンが私の横を通り、扉を開ける。
「国庫へ行く。照合して、今この場で記録に固定する」
回廊の灯りは薄い。影が濃い。
けれど、さっきまでの暗さとは違った。隣にいるのは、腕ではなく書類だ。それでも、私は歩ける。
国庫会計室の確認机では、指ぬき手袋の国庫実務官が待っていた。指先に、封蝋の粉が付いている。
「照合します」
淡々とした声が、妙に頼もしい。
私は3通の封筒を並べた。裂け目のあるもの、ないもの。目録の紙。受領印欄。
国庫実務官が封蝋番号を指先でなぞり、口の中で復唱しているのが見えた。
「……1通だけ、開けられている」
その言葉で、胸が締まる。
でも、次の瞬間、手が止まらなかった。私は裂け目の方を指した。逃げない。
「裂け目は嘘をつけない。触れた指だけが残る」
言葉にした途端、私は自分に驚いた。誰かに言わされていない。私が選んだ言葉だ。
国庫実務官が、残り2通の封蝋を確かめる。番号が合致する。目録も合致する。受領印の欄は空のまま、だからこそ嘘が入り込めない。
「本体は生きている」
国庫実務官が言った。
「開けた者がいる、という記録も生きる。立会い署名は」
「ここだ」
ルシアンが立会い記録簿を差し出した。自筆の署名が、逃げ道を塞ぐみたいに強い。
ミロが勝ちかけた拳を作り、慌てて咳払いで誤魔化した。耳が赤いまま、小声が裏返る。
「番号……生きてます。生きてます!」
私は笑えなかった。まだ怖い。まだ、狙われている。
でも、怖いまま、守れた。紙が守られた。私の言葉が守られた。
国庫実務官が最後に、封筒を机の中央へ戻した。裂け目のある封蝋が、灯りに照らされて影を落とす。
「封蝋は神殿の印。破れるのは、神殿の手順だ」
読了ありがとうございます。封蝋の裂け目は、誰の手だったのか。次話は「保管庫の台帳が動いています」――証拠を狙う影が、こちらの期限を削ります。
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