第30話 数字の傷、増えないはずの流量
「受領印と封蝋番号が無い数字は、存在しない」
国庫実務官の声は、刃物みたいに乾いていた。
分厚い帳簿が開かれた瞬間、私の胸の聖痕が熱を持つ。祈りの言葉じゃない。インクの匂いと、印章の重みが、奇跡を裁く場所に私を引きずり込む。
欄は整いすぎていて、空白だけが目立つ。空白は、誰かの指が通った跡に見えた。
国庫会計室は静かだった。羽根ペンの擦れる音、封蝋の粉が紙に落ちる音、遠くの時計の針。
リーネが腕まくりしたまま、椅子の背に手を置いている。施療院の匂いをこの部屋に持ち込む人だ。
監督官バルドは面会簿を机に置き、赤い印を指先で押さえていた。視線だけで、人の動きを遅くする。
そしてルシアンは、私の前に立たない。壁際、記録用の机の横。護衛ではなく、立会いの位置だ。
「照合します」
国庫実務官は指ぬき手袋のまま、封蝋番号の欄をなぞった。
「封蝋番号、合致。次、受領印」
印が押された欄は、確かに揃っている。揃っているほど、抜けた場所が痛い。
「……聖女さま」
ミロが私の袖をつまみ、薄い紙片を覗かせた。条文番号のメモ。数字がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
「字が小さいのが悪です……」
愚痴の形をした深呼吸。笑う場面じゃないのに、喉の奥が少しだけほどけた。
帳簿の列は5つ。発令日、供給量、受領印、封蝋番号、備考。
私が供給した祝福は、体の中を通って外へ出ていく。流れの感覚がある。温度と、重さと、息の抜け方。
その感覚が、ある行でひっかかった。
私の指が止まった行の供給量は、増えている。
でも受領印の欄が、空白だ。
「存在しない、って……」
声にしかけた途端、胸が冷える。私は昔から反射で頷く。反射で、許可を求める。
戻る癖が、喉の奥で甘く囁く。
ルシアンの靴音が、ほんの少しだけ近づいた。
「近づけない。だから――紙の上で守る」
低い声は命令に似て、でも違う。
彼の外套から、革と鉄と遠い雪の匂いがする。近づけない距離が、私の息を楽にした。
触れたいのに触れない。その代わりに、言葉が手になる。そう理解した瞬間、聖痕のある手を隠す癖がほどけた。
「それは、命令ですか」
私の口が先に動いた。怖さが、言葉に形を与えた。
「違う」
ルシアンは即座に否定した。
「君が決める。俺は立会いで、逃げ道を残す」
心臓が跳ねた。檻の言葉じゃない。檻にならないように削った言葉だ。
私は息を吸い直し、机の上の空白を見た。
「……はい。……でも、帳簿は見ます」
バルドの視線が刺さる。
「噂は罪ではない。罰の前触れだ」
言葉の温度が無いのに、背中が冷える。
ミロが計算用の紙を広げた。
「数字は裏切りません!」
声が少しだけ裏返る。必死さが、頼もしい。
私は供給の感覚を、数字へ落とし込む。出力の重さ、持続の長さ、息の残り方。
帳簿の行は、私の体の記録でもある。
だから分かる。この増え方は、私の感覚と合わない。
「この行……痛いです」
ミロが小声で言い、指で空白を叩いた。
「消せません」
その瞬間、感情が跳ね上がった。
怖い。怒りたい。泣きたい。全部が同じ速さで来て、私は机の縁を掴んだ。
奇跡を盗まれたのか。私の名前で、誰かが別の場所へ流したのか。
領民を巻き添えにしないと決めたのに、既に巻き込まれている気がした。
「足りないのよ」
リーネが短く言った。
「量じゃない。届くはずの物資が、届いてない」
施療院の現場の声が、数字の上に落ちる。
国庫実務官は淡々と、筆を置いた。
「受領印と封蝋番号が無い数字は、存在しない」
同じ台詞なのに、今度は宣告だった。
宣告の直後、回廊の足音が増えた。
扉が開き、白い飾り札を胸に下げたフィオナが入ってきた。
笑顔は整っている。けれど目の奥が、硬い。
「私が補佐します。皆のために」
甘い声。拍手を呼ぶ声。
バルドが面会簿をめくり、赤印の位置をずらした。
「公務のみです。席の追加は、記録が要る」
止めているようで、通す口実も探している。制度の手は両方に伸びる。
私は反射で頷きそうになった。
はい、と。
昔の私なら、その瞬間に終わっていた。
唇を噛んで、飲み込む。
「同席者の条件を確認します」
声が震えなかったことに、私が驚いた。
「受益者は誰で、どの役職が立会いで、誰が記録を取るんですか」
フィオナの眉が動いた。
「姉さま、そんな言い方……」
正義の言葉にするつもりだったのに、苛立ちが混じって荒くなる。
空洞が、そこに見えた。
「それ、姉さまのためじゃないですよね?」
私の口が、勝手に刺した。刺してから、怖くなる。
ルシアンが机の端へ歩き、記録用紙を指で押さえた。
「その席は要らない。監査を遅らせるだけだ」
剣を抜けない場所で、剣より冷たい言葉を使う。
フィオナは微笑みを崩さないまま、言い返した。
「封蝋?……そんなの、誰でも――」
言い切る前に、国庫実務官が視線だけで止めた。
「照合します」
その場は、手順が勝った。
小さくても、確かに逆転だった。
夜。
国庫の灯りは細く、紙は白く、指先は封蝋の粉でざらつく。
実務官の監督の下、写しを3通作る。目録を付け、封蝋番号を記す。紙の重さが、命綱になる。
ミロは該当行だけを集め、机に並べた。
増えた流量。空白の受領印。揃う封蝋番号。
「同じ条件の時だけ……歪みます」
ミロは条文メモを開き、数字を口の中で復唱した。
「発令日が……寄ってます」
「……数字、裏切らないですから」
照れたみたいに小さく言って、封蝋番号を数え直す。
「もう確認したでしょ」
私が言うと、ミロは真顔で指を折った。
封蝋番号、封蝋番号、封蝋番号……。
最後に自分の指まで数えて、止まった。
国庫実務官が紙束を受け取り、受領印欄の空白を指先で叩いた。
「印が無い。――それが答えです」
私は喉の奥が冷えるのを感じた。
増えた流量の行だけ、受領印が存在しない。
存在しないはずの数字が、ここにある。
誰が、印を止めた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。『存在しない数字』の正体、次話で一気に掘ります。面白かった/続きが気になったら、ブックマークと広告下の【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると執筆の燃料になります。




