第3話 聖女ではなく、セレスティナ
かちり、と金属が鳴った。
胸元の焼け跡へ、新しい金具が当てられる。革紐が滑り、締まる予感が先に喉を締めた。痛みよりも早く、身体が従属の形を思い出す。
……はい。言えば終わる。言わなければ、また始まる。
神官の指が、留め具へ伸びた瞬間だった。
「聖女、じゃない。……名前は」
低い声が、壇下の空気を割った。
黒い外套が視界の端に落ちる。式典警護の騎士団長。壇上にいたはずの男が、いつの間にかここにいる。神官の動きが、瞬きほど止まった。
私は顔を上げられない。上げたら、群衆の視線の針に刺される。
でもその声は、私を押さえつけるための音ではなかった。命令の鋭さがない。代わりに、待つ静けさがある。
遠巻きに、見習いの少年がいる。荷を抱えたまま礼法どおりに膝を折ろうとして、途中で固まっていた。隣の貴族に睨まれても、逃げずにこちらを見ている。
その視線が、私の逃げ道を塞いだ。逃げたいのに、逃げたら彼の目に私は消える気がした。
名前。
肩書ではない。器でもない。家の娘でもない。
その言葉が、胸の奥の鎖を指でつまんだみたいに、ひやりとした。
壇上で、妹のフィオナが白い衣のまま微笑む。
「隔離して。皆さまのために」
柔らかい声。だから余計に残酷だ。皆さま、と言った瞬間、私の輪郭が消える。
父の声が続く。朗々として、慈しみの仮面を崩さない。
「この場を乱すわけにはいかない。国の信仰を守るためにも、娘を保護する」
保護。
甘い言葉の刃。保護と呼ばれた瞬間に、鍵は外からしか開かなくなる。それを私は知っている。
喉の奥で、いつもの返事が膨らんだ。
……はい。
言えば、誰も困らない。言えば、怒鳴られない。言えば、また元へ戻れる。
戻れる。その言葉が、胸の底を冷やす。戻る場所は、私の居場所ではないのに。
私は服の上から胸元の鎖跡を押さえた。
焼け落ちたはずなのに、そこにまだ冷たい輪郭がある気がする。指先が震えて、布越しに心臓の速さが伝わった。
「……名前は」
もう1度。怒鳴らない。責めない。逃げ道だけを示すみたいに、同じ問いが落ちてくる。
名を出せば、もっと強く所有される。そう思い込んできた。だから、名は私にとって危険物だった。
私は息を吸って、飲み込んだ。
怖いから黙る。いつもはそれで生き延びた。
でも今は、怖いから言わないと、また私が私を消す。
「……それは、命令ですか」
自分の声が、思ったより近い。問い返した瞬間、壇上の空気が揺れた。
ルシアンは、私を見下ろすでも見上げるでもない目線で、短く首を振る。
「違う。決めるのは君だ。俺は、隣にいる」
隣。
その言葉が、檻の音をしなかった。
私は視線を落としたまま、唇を動かす。名を言うのは怖い。けれど名を言わないのは、もっと怖い。
「……セレスティナ」
声は細い。けれど確かに音になった。
口にした途端、喉の奥が少しだけほどけた。痛いのに、熱い。呼ばれる入口が開いた、と身体が理解してしまう。
「なら俺が呼ぶ。セレスティナ」
その男は、肩書を使わなかった。
私の名を、他人の前で。公の場で。
その事実が、胸に刺さって抜けない。
金具がまた鳴った。
神官が鍵を差し込もうとしている。留め具へ、鍵先が触れる寸前。次に鳴るのは鍵か鎖か。私は息を止めた。
「鍵を渡せ」
ルシアンの手が伸びた。剣ではない。手だ。
神官が目を泳がせ、壇上の父へ視線を逃がす。父の指の紋章石が、灯りを吸い込みたがるみたいに鈍く光った。祈りではない目が、ほんの短い間だけ覗く。
「規則に従え。家の娘だ。返せ」
返せ。その言葉で背中が冷える。返したら、私はまた戻る。戻ったら、次はもっと太い鎖だ。
ルシアンの目は氷のまま、動かない。
「規則なら、今は神殿の手続きが優先だ」
「……ですが、式典が……」
「ここは家の廊下じゃない」
言い切って、彼は鍵束を押さえた。
奪う動きなのに乱暴さはない。手順を止めるための最短の力だ。鍵束が小さく鳴る。解放の音みたいに。
私の胸が、それに合わせて鳴った気がした。
床を打つ乾いた音が、大聖堂の奥まで届いた。
ディオニス大神官の杖だ。ざわめきが、切られる。
「――記録せよ」
大神官は水晶を下ろさず、私の手の甲を見たまま告げた。
「真偽は明日、公開審問にて裁く。今この場では確定とせぬ。ゆえに、候補者は神殿の規則に従い移送する」
明日。公開審問。
言葉が並ぶだけで、呼吸が浅くなる。確定していない。だからこそ、今夜は穴だ。誰の手でも届く夜だ。
私が名を言ったことも、奪われるかもしれない。そう思っただけで胃が痛んだ。
父が前へ出た。外聞の作法に沿った笑みを貼りつけたまま、声だけを大きくする。
「娘は怯えている。私が連れ帰り、守るべきだ」
守るべき。守る名目で、また鎖を増やすつもりだ。
私は唇を開きかけて、音を出せなかった。助けて、と言った瞬間に誰かが罰を受ける。そんな恐れが、舌の根に絡みつく。
昔、私が泣いた夜に、罰を受けたのは私だけではなかった。だから私は学んだ。黙れば、誰も殴られないと。
ルシアンは怒鳴り返さない。父の芝居に乗らず、論点を公へ固定した。
「怯えさせたのは誰だ。公の場で拘束の手順を進めた。これは家の内輪では済まない」
父の笑みが、微かに揺れた。視線だけが、出口へ走る。逃げる視線ではない。取りに行く視線だ。私はそれを見てしまった。
あの視線の先にいるのは、私ではない。道具だ。回収する資産だ。
「我が娘だ。私には保護の責任がある」
「彼女の名は――セレスティナだ」
ルシアンが、父の言葉を切り取った。
私の名で。私の名を、盾にして。
胸が熱くなって、怖さが形を変える。守られるのが怖い。守ると言われるほど、檻が近づくから。
でも今は、息ができる。名が先にあるからだ。
その男は、私の前に立たなかった。
代わりに、少しだけ距離を詰めて、隣へ寄る。触れない。押さえつけない。なのに、私が倒れそうな方向にだけ、影を落とす。
まるで、私が自分の足で立つ余地を残したまま、支えるつもりみたいに。
私は立ち上がろうとして膝が震え、石の冷たさが足裏へ刺さった。呼吸が乱れそうになるのに、ルシアンは腕を掴まない。ただ、鍵束を持った手を少し下げ、私の視界から父の指輪の光を隠した。
その仕草が、優しさに見えてしまうのが怖い。
優しいほど、後で裏切られた時に私が壊れる。そう思ってきた。
それでも、心臓だけが勝手に答える。
この人の隣なら、檻じゃないかもしれないと。
守ってくれたはずなのに――どうして彼は、私の前じゃなく隣を選ぶの?
ここまでお読みいただきありがとうございます。セレスティナが名を取り戻した今夜、明日の公開審問で家は何を仕掛けるのか。ルシアンはなぜ前ではなく隣を選んだのか。続きが気になったら、広告下の【☆☆☆☆☆】評価とブックマークで応援いただけると励みになります。




