第29話 例外条項、帳簿の扉
「恐れ入りますが、本日は公務のみで」
机の上に置かれた面会簿が、乾いた音を立てた。赤い印が押されるたび、紙が沈むみたいに空気も沈む。
バルド監督官は丁寧に笑って、丁寧に壁になる。私の前に置かれたのは椅子ではなく、線だった。
誓約の文言が、まだ皮膚の内側に残っている。勝手な移動は禁止。勝手な面会は禁止。勝手な発言は禁止。
禁止の並びは、私の呼吸を浅くするだけで、施療院の棚を満たさない。
息を吸うと、胸の奥で返事が先に走る。言い慣れた形のまま、喉に「はい」が浮かぶ。
飲み込む前に、私は舌の先でそれを噛んだ。噛み砕くみたいに、折る。
「……はい……でも、帳簿は見ます」
自分の声が、自分の耳に刺さった。怖い。けれど、怖いだけで終わらせたらまた奪われる。
監督官のまつ毛がわずかに揺れた。反対の言葉はまだ来ない。来るなら、もっと丁寧に来る。
ミロが私の横で肩を震わせた。胸元のポケットから小さな紙片を出す。隠したつもりなのに端が飛び出していて、私が指先で押し込むと、彼は真っ赤になって瞬きを増やした。
「例外条項の番号です、閲覧根拠はこれで――」
紙の上には細い文字と、やけに長い数字が並んでいる。私はそれを見ただけで、背筋が冷えた。
数字は嘘をつかない。嘘をつけるのは、人だけだ。
監督官の視線が紙へ落ち、戻った。笑みは崩れないのに、瞳だけが揺れた。
「その番号で……通します、期限は守ってください」
面会簿の赤印を、監督官の指が軽く叩く。押しつけるでもなく、諭すでもなく。ただ、記録として。
指先の音が、私の首輪の位置を決めるみたいで、ぞっとした。
「噂は罪ではない、罰の前触れだ」
監督官はそう付け足して、私の背後に視線を滑らせた。廊下の向こう、黒い外套の位置を確認するみたいに。
ルシアンが立っている。護衛ではない。近づけない距離のまま、立会いの形でここにいる男。
名で呼びたそうな口元を、噛み殺すみたいに閉じている。
私は椅子から立ち上がった。足が少しだけ震える。監督官の「通します」は許可ではなく条件だ。
条件がある限り、私は動ける。動ける範囲が、やっと輪郭を持った。
その現実が、痛いほど甘い。
施療院へ向かう廊下は、薬草の匂いが薄かった。いつもなら鼻に残る苦さがない。代わりに湿った布と汗が混ざって、息が詰まる。
寝台の上で、子どもが咳をした。母親の指先が、痩せた肩を撫でる。私は祝福で熱を鎮められる。けれど、治った先の飢えは消えない。
床に落ちた包帯の切れ端が、白ではなく灰色に見えた。
「足りないの」
リーネが低く言った。施療院長の瞳は寝台ではなく、空っぽの棚を見ている。
「量じゃない……包帯も、薬も、器具も、届くはずの月の分が届かない」
その言い方が、私の胸をえぐった。祝福が足りないのではない。足りないのは、運ばれるはずの現実だ。
私は笑って誤魔化したくなった。いつも通り、私だけ我慢すればいいと。
その癖が、喉の奥で舌を巻いた。
手の甲の聖痕を押さえる。焼けるような熱はないのに、そこだけが冷たい。
父の指輪が、祈りより先に「吸う」感覚を思い出す。吐き気が込み上げて、唇を噛んだ。
私の光が、誰かの倉庫で止まるなら、救ったはずの命は紙くずになる。
「セレスティナ、顔色が」
リーネの声に首を振る。揺れると、心まで折れそうだった。
「大丈夫です……今日、扉を開けます」
言い切ってしまうと、逃げ道が狭くなる。けれど狭いほうが、私には歩ける。
リーネは私の目を見て、頷いた。慰めじゃない頷きだった。催促の頷きだ。
国庫の記録室前は、神殿より冷たい。石も、金具も、声も。
扉には封印があり、鍵穴の周りに封蝋の跡が並ぶ。触れたことが残るように、わざと残すように。
国庫実務官が机を挟んで立ち、目録を開いた。受領印の欄は空白だらけで、封蝋番号だけが綺麗に揃っている。
「閲覧は立会い必須です、写しは3通、封蝋番号を揃えて受領印を付ける」
淡々とした声が、手順を積み上げる。私は紙を見つめながら、指先の震えを隠した。
帳簿は中立だと、思っていた。けれど、この扉の向こうには、誰かの息が詰まる理由が眠っている。
数字が並ぶ場所に、痛みが並ぶ。逃げ場がないほど、ありがたい。
ルシアンは扉から少し離れた場所に立っていた。剣帯の位置に手が触れかけ、止まる。神殿の規則が、彼の指先を止めている。
代わりに彼は、私の背後の通路を見た。誰が来ても、誰が来たと記録できる角度を選んでいる。
「近づけない、だから――紙の上で守る」
低い声が、扉の金具より硬く響いた。甘さじゃない。許しでもない。公務の言葉で、私の選ぶ場所を確保する声だ。
胸が熱くなるのに、泣く暇はない。泣けば、また「守られる恐怖」に戻る。
「……ありがとうございます」
短い言葉しか出なかった。短いほうが、嘘が混ざらない。
大神官の執務室は、香の匂いが薄い。飾りのない机の上に、提出用の用紙が置かれている。
ディオニス大神官は私を見ず、紙を見たまま言った。
「守りたいなら、公開できる形にしろ」
冷たい。けれど冷たさは刃ではなく定規だ。曲がったものを切りそろえるための。
「受益者同席、国庫実務官の署名、監督官の認証、騎士団長は立会いとして記録を残す」
条件が並ぶたび、私の首に輪が増える気がする。けれど、その輪は鎖じゃない。外されないための輪だ。
誰かが「勝手に」奪えない形にするための。
私は唇を湿らせた。誓約は私を黙らせる。でも、黙らされるだけなら、やっと見つけた鍵穴も塞がる。
ディオニス大神官の視線が、初めて私に刺さった。刺すためじゃない。曲がりを測るための視線だ。
「監査申請の受付は」
大神官の指が紙の端を押さえた。押さえるだけで、逃げ道が消える。
「明日正午までです」
室内の空気が止まった。私の心臓だけが、やけにうるさい。
止められているのに、鍵穴は見つかった。
開ける代わりに、時間が首に巻きついてくる。私はその重さを受け止めて、息を吸った。
ここまで読んでくださりありがとうございます。帳簿の扉は開くのか、申請期限は明日正午。セレスティナは誰の署名を揃えられるのか。続きが気になったら、広告下の【☆☆☆☆☆】評価とブクマで応援いただけると励みになります!




