第27話 欠片の保管庫、奪われないのに崩れる
「……封蝋の位置が、昨日と違います」
門番が喉を鳴らして言った瞬間、胸の奥が冷えた。
神殿庫の扉は分厚い。鉄の飾り金具より先に、白い封蝋が目に入る。割られた形跡はない。回覧印も、押されたままだ。なのに、封蝋だけがほんの少しずれている。
守れたはずの証拠が、守れなくなる音がした。
「触らないで」
自分の声が思ったより鋭く出て、指先が震えた。謝って黙る癖が、喉の裏で身を起こす。けれど今は、それを飼いならす側でいたい。
監督官エルヴァンが目線だけで私を制した。咳払いはしない。代わりに、無駄のない指示が落ちる。
「門番、記録。ミロ、立会いの名を」
「はい。……はい」
ミロが筆記板を抱え直す。いつもより背筋が真っ直ぐで、逆に怖い。
扉の鍵穴へ鍵が差し込まれる。金属の音が、候補者区画の扉の音と重なって聞こえた。解放じゃない。管理の音だ。
扉の前で、私は手の甲の聖痕を握り込む。欠片は、ただの破片じゃない。私が私だと言うための、最後の硬いもの。
だからこそ、奪われるよりも、もっと嫌な形で壊される。
エルヴァンが封蝋の縁を、布越しにそっとなぞった。
「割れていない。……だが、位置が違う」
「違う、って」
声が掠れた。
門番は、私を見ない。見ないのは礼儀で、同時に逃げ道でもあるのに、今日はそれが怖い。
鍵が回り、扉が開く。冷たい空気が流れ出た。
中へ入る許可は、すぐには出ない。手続きが先に立つ。
「立会い。あなたも入りますか、セレスティナ」
エルヴァンの問いは優しくない。けれど命令でもない。
「入ります」
言い切ると、喉の奥の古い癖が小さく割れた。
神殿庫の中は、乾いた紙と石の匂いがした。棚は整然として、番号札が等間隔に並ぶ。整然としているほど、崩れた時の音が大きい。
指定の棚へ歩くあいだ、足元の影が長く伸びた。誰かの影が混じっている気がして、何度も振り返りたくなる。
箱はあった。
封蝋も割れていない。
回覧印も揃っている。
欠片も、そこにある。
だから、胸の奥がさらに冷えた。
私は呟いて、自分の声に自分で刺された。
欠片は無事でも、棚の並びが違う。隣に置かれるはずの目録が、別の箱の脇に寄っている。紙の端が擦れ、角が潰れている。誰かが、ここを触った。
「奪われなかった。……だからこそ怖い」
言葉にした瞬間、世界が狭くなる。いまの私は、正しさを選ぶしかない。けれど正しさは、紙の上では簡単に形を変える。
あの家で私は、何度もそうされてきた。見えない場所で入れ替えられ、いつも私が悪い形に落ちる。
ミロが棚の札と箱の封蝋を見比べ、息を吸い込んだ。
「封蝋番号……控えます。回覧印の位置も」
その筆先が小さな字で走る。番号だけ。余計な説明は書かない。書いた瞬間に、誰かの都合で整えられるから。
私も頷いた。怒りが冷たく、形を持って落ち着いていく。
エルヴァンが静かに言った。
「確認します。……規則どおりに」
その言い方が、怖いのに、少しだけ頼もしい。規則は檻になる。けれど同じ規則は、誰かの指を縛る縄にもなる。
私は欠片の箱に目を戻した。小さな破片。触れれば、私の指だけが熱を持つ。吸う癖が体の奥で蠢く。穢れを引き受ける器として生きた名残だ。
吸わない。いまは吸わない。
私は呼吸を整え、掌を伏せた。
「誰かを疑うより先に、紙が勝手に喋る」
口から出た言葉に、ミロが小さく目を見開いた。エルヴァンは反応しない。ただ、記録係の門番へ視線を流す。書け、という合図だ。
庫を出るとき、扉の外の光がまぶしかった。まぶしさが、檻の外ではなく檻の輪郭を強調するみたいで、思わず瞬きを多くする。
通路の角で、ミロが足を止めた。
床に、紙の切れ端が落ちている。通行札の端。封蝋の欠片みたいに白く、でも紙だ。
ミロは手袋越しに拾い上げ、口元を引き結んだ。
「……これ」
「捨てられた、の」
「落ちた、かもしれません。でも」
彼は裏面を見て、眉を寄せる。
「番号が合わないんです。……合わないのが、最もまずい」
その言い方で、背中に冷たい汗がにじんだ。
合わない。つまり、どこかで帳尻が合う形に直される。直される前に、こちらが先に形を作らないといけない。
ミロは張り切りすぎたのか、封蝋紙で包もうとして指先をべたつかせた。
「……これ、くっつきます」
「今は笑えない」
「はい」
返事だけが妙に丁寧で、私は息をひとつ吐いた。感情が崩れそうな時ほど、生活感は救いになる。
通路の脇に、控え帳の棚が見える。背の低い棚。誰かが手を伸ばせば届く高さに、同じ色の背表紙が並んでいる。
ミロの視線がそこへ瞬きの間だけ刺さって、すぐに外れた。刺さったまま残ったのは、嫌な予感だけだった。
候補者区画へ戻ると、机の上に報告書が置かれていた。施療院宛の定型文書。封蝋用の小さな皿と、赤い蝋が添えられている。
公務。立会い。必須。
紙の言葉は正しいのに、私の胸の奥だけが狭い。
それでも、私は筆を取る。欠片の保管庫で起きたことを、淡々と書く。封蝋は割れていない。位置がずれている。棚の並びが違う。通行札の切れ端を保全した。
淡々と書くほど、怒りが芯になる。
書き終えて封を閉じようとした時、余白の隅に細い字があるのに気づいた。
この文書は私の手元に来るまでに、何人もの手を通る。だから余白は空白のはずだ。
けれど、そこには短い文があった。
君が選ぶなら、俺は隣にいる。
息が止まった。
名前はない。署名もない。けれど、あの人の言葉の癖だけがある。命令じゃない。奪う言葉じゃない。私が選べる余白を残す言い方だ。
会えない。
会えば、また赤線が増える。
でも、いま私の手元に届いたのは、距離を取ることで守る人の形だった。
胸の奥で、何かがほんの少しだけほどけた。信じたくないのに疑う状況ばかり積まれていた。そこへ、紙の隅から来た小さな支えが刺さる。
私は余白を指でなぞり、すぐに手を引っ込めた。触れた跡も、記録になる気がして。
封蝋を溶かし、封を閉じる。赤い蝋が紙に落ち、広がり、固まる。
その瞬間、ミロが拾った通行札の番号が、頭の中で鳴った。
封蝋は割られていない。棚は入れ替えられている。通行札の切れ端が落ちていた。
外じゃない。内側だ。
誰が、誰の名で出入りしたの。
読了ありがとうございます。封蝋が割れていないのに崩れる――そんな「制度の穴」の怖さ、伝わったでしょうか。次は「名義」が牙をむきます。面白かった/続きが気になったら、ブックマーク+広告下の☆☆☆☆☆で評価を頂けると次話の燃料になります。感想も一言で大歓迎です。




