第26話 通行札の影、信じる相手が減る
ミロが紙束をめくる手を止めた。
「……同じ条文なのに、印が違う」
その言葉で背筋が冷えた。誰かが嘘をついた、と決めつけるより先に、手続きそのものが勝手に口を開く匂いがした。
閲覧机の上には、封蝋の欠片みたいに硬い書面が積まれている。保護誓約の写し。面会簿の差戻し理由。通行札の発行控え。全部、私の呼吸を浅くする紙だ。
ミロは回覧印の位置を指でなぞり、次の紙へ移った。朱の印影が、さっきと微妙に違う。
「押し直した跡……です。たぶん」
彼の声が震える。怒りというより、正しさが崩れる音だ。
私は指先で紙の端を触った。乾いた繊維。正しいふりをした硬さ。
机の端には、薄く滲んだ印影がもう1つあった。消したいものを、上から塗りつぶしたみたいに。
面会簿の赤い線が、頭に浮かぶ。あれも、丁寧な朱筆だった。
私の喉に「はい」が浮かびかけて、消えた。今ここで返事をすると、また紙に従う側へ戻ってしまう気がした。
ミロは小さな手帳を開き、条文番号と印の並びを淡々と書きつける。癖みたいに、迷いなく。
私はその手元から目を離せなかった。私の言葉より、彼の筆記のほうが強い証拠になる。そう思う自分が、悔しい。
「私の言葉は……紙に負けるの?」
漏れた声は、立会いのない場所でも薄く震えた。
「負けません。負けない形にします」
ミロは顔を上げずに言う。優しいのに、戦う言い方だった。
机の奥で、鍵束が小さく鳴った。閲覧室の出入りを監督する神官が動いたのだろう。
その音が、解放ではなく管理に聞こえる自分がいる。私は、いつからこんなに音に怯えるようになった。
通行札の検札所は、回廊の途中にある小さな机だった。門番は慣れた手つきで札を受け取り、穴の空いた板に通して回収する。
ミロは礼法どおりに頭を下げ、規則を暗唱し始めた。
「本日付の通行札は、用務先、同行者、立会い名、印……えっと、印……」
「落ち着け」
門番が短く言い、笑いもせずに私たちを見た。ミロの耳が赤くなる。
「礼法って……筋肉ですね……」
ミロが息だけで呟く。私は息を抜きかけて、すぐ飲み込んだ。笑えば、油断になる。
「回収した札は、どうなりますか」
ミロが声を整える。
「保管。足りなけりゃ刷り直し」
「刷り直し……誰の記録になります?」
門番の眉が動く。答えに困る顔ではない。困る必要がない顔だ。
「控え帳に書く。決まりだ」
決まり。たったそれだけで、穴は完成する。
私は札の束を見つめた。安全の札が、情報の札になる。守るための手順が、漏らすための導線になる。
札の番号が、昨日耳にした噂の数字と重なって頭を刺した。欠片を買う話に、神殿の通行札番号が混ざるはずがない。なのに、混ざっていた。
門番は札を束ねながら、ぽつりと呟いた。
「昨日……札が1枚、余った」
余る。発行と回収が決まりなら、余るはずがない。
ミロの筆先が止まった。
「余った札は、どうしますか」
「廃棄……いや、倉へ戻す」
門番の視線が泳いだ。誰かを庇う泳ぎではなく、言い慣れていない言葉を探す泳ぎだ。
私は胸の奥が冷たくなるのを感じた。余った札は、誰かの手の中に残る。紙が喋る前に、人が喋る。
候補者区画へ戻る途中、祈祷室の前で監督官エルヴァンに呼び止められた。
丁寧な微笑み。慈悲の口調。だから余計に、刃みたいに痛い。
「セレスティナ殿。面会や移動の希望があるなら、立会いの上で伺いましょう」
隣の神官が筆と板を構える。最初から記録する形だ。
私は息を吸って、言いかけた。会いたい。話したい。名前で呼ばれる場所へ行きたい。
その瞬間、喉の奥が締まった。言えば言うほど、凍結が増える。私の言葉が、私を縛る。
私は口を閉じた。
「……沈黙も、記録に残りますよ」
監督官は穏やかに言う。
穏やかさが、逃げ道を消していく。
「残して。構いません」
私は視線を上げた。上げられたことが、少しだけ自分でも怖い。
監督官が書面に朱筆を走らせ、短い赤線を引いた。差戻しの線。
私の背中が反射で縮む。あの家の朱筆と、よく似た速さだった。
「私の癖です。……あなたの癖にしないで」
言い終えた瞬間、胸が痛んだ。言葉は刃にも、盾にもなる。私はまだ、扱いに慣れていない。
回廊の角で足を止めた。私は姿を見せられない位置に立ち、壁越しの声だけを拾う。
革と鉄と、遠い雪の匂いが近づいた。視界に入らなくても分かる。
ルシアン。
新しい護衛の声が低く続く。
「命令通りに。面会は凍結されています」
「……会えば、凍結が増える」
ルシアンの声は、いつもより乾いていた。会えないのではなく、会わない。私を避けているのではなく、罠を避けている。
そう思いたい。思いたいのに、足場が足りない。
胸の奥に、疑いの形が生まれる。小さくて、でも重い。
私が疑った瞬間に、恋は壊れる。そんな迷信を信じ込んでいた。
だけど、壊れるのは恋ではなく、私の逃げ道かもしれない。
新護衛が言いかけた。
「通行札は――」
そこで声が落ちる。紙が擦れる音だけが残った。
候補者区画の小卓に戻ると、ミロが机いっぱいに番号のメモを並べた。条文番号。回覧印。通行札の控え。線が、少しずつ繋がりかける。
「写しが複数系統で回っています」
ミロが指先で印影の差を示す。
「誰が回した、じゃなくて……紙が2種類ある」
私は言ってから、唇を噛んだ。人を疑うほうが簡単だ。名前を付ければ、怒れる。泣ける。許せる。
仕組みを疑うと、出口が見えない。
「人を疑うと、楽になります」
ミロがぽつりと言う。
楽になる。責める相手が決まれば、考えなくて済む。
私は手の甲の聖痕を覆い、深く息をした。
「でも、それは私の癖だ」
言ってしまってから、胸が熱くなった。私はまた戻る。黙って、誰かの都合に合わせる。
それでも。
「疑いを罪にしない。証拠だけ増やす」
言葉にした瞬間、喉の痛みが少しだけ軽くなる。
ミロが頷き、控え帳の棚の位置を指さした。
「触れる棚です。誰でも」
誰でも。だからこそ、誰かの悪意がなくても漏れる。
紙が勝手に喋る。
制度が勝手に裏切る。
私は通行札の控えの末尾にある空欄を見た。再発行欄。そこに、細い赤線が引かれている。印がない。処理が終わっていない。
未処理の札が、この神殿のどこかで息をしている。
その札が、どこへ行くのか。
そして、誰の名前で動くのか。
窓のない部屋で、私は外の気配を探した。ルシアンの足音は遠い。近づけば、檻が強くなるのだろう。
信じたい相手から、少しずつ距離が奪われる。
それでも私は、信じるために動く。
漏らしているのは神殿か。王宮か。
それとも――私のすぐそばか。
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