第23話 書面の隙間、言えなかった言葉
「――会うはね。ここじゃ報告書になるの」
リーネが淡々と言い切った瞬間、机に積まれた紙束の角が、私の喉をもう1度塞いだ気がした。
面会室の赤印は、まだ手の甲の聖痕より鮮やかに目に焼き付いている。
あれ以来、私の「会いたい」は、紙の欄に押し込められる。
施療院の事務机は低い。なのに書類の山が視界を占領して、窓の光まで薄くした。
インクの匂い。紙粉。乾いた咳払いの記憶。
私は椅子に座る前から息が浅い。
「止めるなら、病室で言いな」
リーネは湯飲みを置き、指先で書式を揃えた。
私の前に差し出されたのは、施療院への祝福配分の記録と、神殿へ提出する報告書だった。
欄外には同席者の枠がある。
最初から埋められていた文字に、指が止まる。
同席者:監督官。
紙が冷たいのに、頬だけ熱くなる。
私が誰かに会うことは、最初から「誰かに見られること」と同じだ。
「……はい」
反射みたいに返事が出て、すぐ舌が苦くなる。
私は息を吸い直し、ペンを握った。
「……いえ。書きます」
言い直すだけで喉の奥が痛い。
でも痛みは、まだ私のものだ。
ミロが右側で紙束の端を揃え直した。
真面目すぎる手つきで湯飲みの位置まで直してから、眉を寄せる。
「字が……小さすぎます!」
怒っているのに声が小さい。
リーネは肩をすくめた。
「神殿の書式はそういうもの。読めないなら、読める形にして残すだけ」
残す。
その言葉が、今の私の救いになるなんて思わなかった。
私は署名欄に自分の名を書いた。
インクが紙に吸われるみたいに沈む。
書き終えたところで、手の甲の聖痕がひどく静かに脈を打った。
会えないなら、会う形をこちらが作る。
それが「公務」だとしても、私は消えない。
「面会室は押さえてある。監督官が同席する。騎士団長も公務なら来る」
リーネの声は事務的だった。
来る。
その2文字だけで胸が痛い。
私は書類を抱え、面会室へ向かった。
廊下の石は冷たく、靴音が規則正しく響く。
規則。記録。封蝋。
どれも私を守るふりをして、私の口を塞ぐ。
扉の前に監督官が立っていた。
あの人の咳払いは、欄を閉じる音に似ている。
面会簿が開かれる。
赤印が今日の日付の横で、やけに目立つ。
「当面、面会は公務のみ」
監督官は私を見ないまま言った。
「……承知しました」
言葉が軽い。軽いほど沈む。
扉が開き、面会室の空気が流れ出た。
机と椅子が2脚。けれど2人きりにはならない。
ルシアンがすでに座っていた。
黒い外套は脱いでいるのに、革と鉄と遠い雪の匂いがする。
氷みたいに静かな目が、私を捉えた。
私は椅子に座り、報告書を机に置いた。
紙が、私と彼の間の壁みたいに見える。
監督官が椅子に腰を下ろし、ペンを用意する。
同席者の署名欄に、赤い印の跡がある。
押されかけて、やめたみたいに滲んでいた。
「施療院の配分は、明日も同量で維持する。記録はこの書式で回せ」
ルシアンの声は低い。
公務の言葉だけが並ぶのに、喉の奥が熱くなる。
「公務なら、答えてください。……明日の巡回は、誰が同行しますか」
言った瞬間、監督官のペン先が止まった。
止まったのに、何も言わない。
その沈黙が許可の代わりになるのが悔しい。
「監督官が指定する」
ルシアンの視線が、私ではなく面会簿へ落ちる。
剣で守れない場所で、彼は紙を見て守ろうとしている。
分かるのに苦しい。
「……私、何かしましたか」
口から出たのは情けない問いだった。
会えない理由を、私のせいにしたい癖が残っている。
「違う」
短い声が落ちた。
監督官が咳払いをした。
面会簿が、強く閉じられた。
その音で、私は昔の檻に戻りかける。
息が浅くなり、視線が落ちる。
私は机の下で指を握りしめた。
聖痕を隠す癖が出そうになって、逆に手の甲を机の上に出した。
逃げない。ここにいる。
「公務は終わったか」
監督官が立ち上がる。
「まだ」
私の声が思ったより強く出た。
「報告が残っています」
私はリーネから渡された別紙を差し出した。
患者の名が並ぶ短い記録だ。
末尾に署名欄がある。
同席者の欄もある。
監督官は眉をひそめたが、否定しない。
否定できない。
公務の形にした瞬間、私の言葉は欄に守られる。
監督官は扉の外へ出た。
扉が閉まる直前、咳払いだけが置き土産みたいに残った。
面会室に、2人分の呼吸だけが残る。
静かすぎて怖い。
なのに、その怖さが甘い。
ルシアンが立った。
机を回るでもなく、私の前に立つでもなく、距離だけが変わる。
1歩。
近づきそうで止まる、いつもの距離。
「……黙ってると」
言葉が震えた。
「私は、昔の檻に戻る」
言えたことが痛い。
ルシアンの手が腰へ伸びかけて止まる。
剣はここでは意味にならない。
彼は手を下ろし、息を吐いた。
「今は言えない」
低い声が落ちる。
「言えば、君を守れない」
守れない。
その言葉が、私の心臓を掴む。
私のせいで、また誰かが苦しくなる。
そう思いかけて、机の上の紙が視界に入った。
私が書いた私の名。
残した記録。
消えない形。
「……なら、言わないでください。今は」
逃げるためじゃない。
守るために、待つ。
ルシアンの目が、ほんの少しだけ揺れた。
熱がそこにある。
それを見てしまうと苦しいのに、少しだけ救われる。
扉の外で足音がした。
規則正しい靴音じゃない。急いでいる音。
ミロが扉の隙間から顔を出した。
頬が赤い。走ったのだと分かる。
「……すみません。今、廊下の端で」
声が震えている。
それでも、手に持つものだけは落とさない。
ミロは周囲を確かめ、折り畳んだ紙片を私に差し出した。
角が湿っていた。握りしめすぎたのだ。
「……第17条。例外が、あります」
ミロは小声で言って、すぐ唇を噛んだ。
紙片の裏に、赤い滲みがあった。
押されかけて止まった印。
さっき見た滲みと、同じ匂いがする。
私は息を飲んだ。
抜け道は想像じゃない。
番号だけの刃が、私の手の中にある。
ルシアンが、私の胸元に視線を落とした。
紙片の存在を言葉にしない。
言葉にした瞬間、檻の材料になるのを知っている。
彼は代わりに、ほんの少しだけ距離を詰めた。
1歩分の温度が、触れないのに触れられたみたいに熱い。
「離れても、隣はやめない」
低い声が落ちた。
命令じゃない。誓いにも似ている。
私は頷いた。
頷く代わりに、紙片を握り直した。
カチッ、と小さな音がした。
ミロが封蝋箱の鍵を、握り直した音だ。
ルシアンが口を開いた。
氷みたいな目が、今だけ熱を帯びる。
「君を――」
言葉の続きが来る前に、扉が叩かれた。
「騎士団長。至急」
外の声は短く、拒否を許さない。
ルシアンの視線が、私から扉へ移る。
戻りたくないのに、戻らなければならない背中になる。
彼は外套を掴み、扉へ向かった。
出ていく直前、振り返らないまま低く落とす。
「決めるのは君だ」
いつもの言葉。
いつもより重い。
扉が閉まった。
2人分だった呼吸が、1人分に減る。
私は胸元の紙片を取り出し、折り目をなぞった。
赤い滲みが指先に移りそうで怖い。
でも怖さは、私の手の中にある。
廊下の遠いところで、また咳払いが聞こえた。
欄を閉じる音。
そして別の音が重なる。
封蝋が割れる、乾いた音。
私は立ち上がり、紙片を握ったまま扉へ向かった。
公務の形で作った隙間が、今、誰かに塞がれようとしている。
第17条の刃を抜く前に、こちらの手が奪われるかもしれない。
そんな予感だけが、赤い滲みみたいに残った。
ここまでお読みくださりありがとうございます。第17条の例外と、割れた封蝋――次話で真相が動きます。
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