第22話 面会簿の赤印、沈黙の盾
面会簿に、赤い印が押された。
乾いた音が耳の奥で反響して、胸の奥が先に息を忘れる。
監督官セヴェルは私を見ず、淡々と言った。
「当面、面会は公務のみ――騎士団長殿のお名前は外します」
赤が、欄の上で濡れたみたいに光っている。
印の縁がわずかに二重だ。押し直した跡。急いだ指の癖だけが残る。
私の視界だけが狭くなった。
机の端に置かれた面会簿は、公文書の重さで開きにくかった。
セヴェルの指が頁を押さえ、印の余熱みたいな匂いが立つ。
紙の匂いと、インクと、封蝋の甘い焦げ。
その組み合わせが、昔の鎖の音を連れてくる。
「……公務、のみ」
声に出した瞬間、喉が勝手に乾く。
私は自分の手の甲を見ないようにした。誓約印の熱が、まだ皮膚の奥で脈打っている。
ミロが私の背後で姿勢を正した。正しすぎて、肩が小さく震えている。
「し、承知しました……えっと、赤は、インク代が高いんですか」
セヴェルの視線が、紙からミロへ移った。
ミロはすぐに口を閉じた。顔が赤いのに、欄の赤がもっと怖い。
「噂は罪ではない――罰の前触れだ」
セヴェルは言い切って、面会簿を閉じる音を少し強くした。
その音で、私の肩が跳ねる。
息が浅い。花の香があるはずの神殿の廊下が、石の冷たさだけになった。
「赤いだけで……こんなに、息が浅くなる。私は、まだ檻の中だ」
言ってしまってから、恥ずかしさが遅れて来た。
でも、セヴェルは眉ひとつ動かさない。
「護衛体制は再編します――詳細は追って」
言い切らないのが怖い。言葉の余白に、勝手に刃が生える。
私は面会簿の赤印から目を離せないまま、面会室の扉へ向かった。
扉の向こうが近いほど、遠い。
廊下の分岐で、鎧の擦れる音がした。
ルシアンが、監督官の影と向き合っている。
距離はある。けれど、空気が刺さる。
セヴェルの声は低く、ここにいる私へ届かないように落ちた。
「守るために距離を取ってください」
ルシアンの手が腰へ行きかけて、止まった。
剣の柄には触れない。触れたら、守りが壊れると分かっているみたいに。
「……了解した」
短い返事だけ。
その短さが、私の胸を削る。
セヴェルが去るとき、封蝋袋が揺れた。口元から、同じ印影の蝋片が覗く。
見なかったことにしたいのに、目が勝手に拾う。
面会室に入ると、椅子の位置が変わっていた。
机を挟んで、私の椅子は内側。相手の椅子は遠い。
椅子同士の距離が、規則の文章になっている。
扉が閉まる寸前、外の気配が残った。
セヴェルが席を外さない。いるだけで、会話の温度が下がる。
ルシアンが入ってきた。騎士団長の制服はいつも通り整っているのに、目だけが硬い。
私は赤印を握りしめたまま、机の上へ面会簿の写しを置いた。
「……見て」
言ったのに、ルシアンは写しに視線を落とさない。
私の指先を見る。そこが熱いのを知っているみたいに。
呼びたい名前が、舌の先で止まる。
名前は救いだった。けれど今は、罪の材料になる。
「騎士団長殿」
自分の口から出た職名が、私の心臓を冷やした。
ルシアンの睫毛が揺れた。怒りか、痛みか。分からない。
「……セレスティナ」
名で呼ばれた瞬間、胸がきしんだ。痛いのに、呼吸が少し楽になる。
矛盾が、また私の中で生き返る。
「どうして……何も言わないの」
私の声が、思ったより鋭かった。
セヴェルのペン先が紙を擦る音がする。記録が、今も増えていく。
ルシアンは、机に置いた写しをまだ見ない。
代わりに、扉の外へ瞬間だけ視線を落とした。
封蝋袋。さっきの揺れ。
それで、余計に分からなくなる。
「あなたが黙ると……私は、昔の檻に戻る」
言った途端、喉の奥が熱くなった。
あの拘束具の擦れる感触が、服の上から戻ってくる。
私は、昔の私に戻りたくない。
ルシアンの肩が小さく沈んだ。
近づきたい足が、動けないのが見える。近づけば規則が吠える。
彼は、動けない自分を飲み込んだ。
「今は言えない――言えば君を守れない」
言葉が落ちたとき、私は笑いそうになってしまった。
笑えないのに、笑いの形だけが喉に引っかかる。
「……守るって、誰のため?」
私の問いに、ルシアンの目が少しだけ揺れた。
答えが出そうで、出ない。
沈黙が、私の誤解を育てる土になる。
「保護は善意だ――だからこそ、破れば罰になる」
セヴェルの声が、部屋の隅まで均した。
善意。罰。
並べられた瞬間、私の心がどこにも置けなくなる。
ルシアンは、私を見ているのに、何も渡せない顔をしていた。
その表情が、昔の父の顔と重なりかけて、私は目を逸らした。
違う。分かっている。分かっているのに、体が先に怯える。
扉の外で、ミロが小さく咳払いをして合図しようとして、むせた。
気まずい音が続いて、私の涙が引っ込む。
私は唇を噛んで、息を整えた。
ここで怒鳴れば、言葉が燃料になる。
弁解も、抗議も、欄に残って鎖になる。
私は拳をほどいた。
「……公務なら、何を話せばいいの」
私が絞り出すと、ルシアンはやっと写しへ視線を落とした。
赤印の部分だけ、見ない。
見たら怒りが漏れる。そう見えた。
それが小さな反転だった。
見捨てたから見ないのではない。壊さないために、見ない。
決めつけそうになった心が、ぎりぎりで止まる。
「施療院の供給は、止めさせない」
彼の声は低い。剣じゃなく、規則と向き合う音だった。
「君の動ける分だけ、俺が規則を背負う」
言い切った直後、彼は口を閉じた。続きがあるのに、言えない。
面会の終了を告げる小さな鐘が鳴った。
セヴェルが立ち、椅子の脚が石床を擦る。
私も立つ。距離は埋まらないまま。
廊下へ出ると、庭の花の匂いがした。
それでも息は浅い。香りが檻の中まで入ってくるみたいに。
私は壁に手をつき、誓約印のある手の甲を隠した。
書庫の隅で、ミロが紙束と格闘していた。
目の下に影がある。寝ていない顔だ。
彼は私を見ると、紙片を袖から滑らせた。折り畳まれた、小さな秘密。
「……第17条、例外が、あります」
数字だけが、暗い場所で光った。
ミロの指が震えている。
「記録がないと、無かったことになります」
彼は唇を噛み、そして小さく言った。
「番号だけは、嘘をつきません」
私は紙片を握った。軽いのに、重い。
夜。眠れない熱が手の甲から肩へ上がってきて、私は小礼拝室へ水を取りに出た。
灯りの少ない回廊は、昼の神殿よりずっと冷たい。
その冷たさが、頭を少しだけ澄ませる。
角を曲がった先で、音がした。
言葉ではない。紙が擦れる音。
封蝋が削れる、乾いた音。
柱の影から覗くと、ルシアンがいた。
相手は神殿側の人物。顔は見えない。けれど手には封蝋袋がある。
ルシアンが受け取ったのか、渡したのか、分からない。
彼が私のほうへ振り向きそうで、私は息を止めた。
胸の中で、赤印がまた押される。
この沈黙は、盾なのか。
それとも――私の知らない取引の音なのか。
読了ありがとうございます。赤印で「会えない」が制度になった夜、セレスティナは沈黙の意味を探します。次話、封蝋の音の正体へ。続きが気になったら、広告下の【☆☆☆☆☆】で評価&ブックマークを頂けると励みになります。感想も大歓迎です。




