第21話 署名の熱、消えない刻印
監督官の赤い指先が、封蝋の箱の鍵に触れた。
かちり、と乾いた音がして、祈りより先に蝋の匂いが立つ。
「――封蝋を。署名はここでです」
羽根ペンを渡されただけなのに、指先だけが熱くなった。紙に触れる前から、鎖が鳴っている気がした。
小礼拝室は、夜の呼吸をしていた。灯りは少なく、石壁が近い。
ミロが机に紙片を並べ、喉を鳴らす。
「想定問答、いきます。……ええと、ええと。『保護誓約の趣旨を理解しましたか』」
彼は真面目に読み上げるほど、声が硬くなる。私の胸も硬くなる。
返事の型は、もう身体が覚えている。
はい。
舌が動きかけた瞬間、喉の奥で止まった。空気が薄くなる。聖痕のある手の甲が、勝手に袖へ隠れる。
「……セレスティナ?」
名で呼ばれて、さらに息が乱れた。呼ばれたのに、返せない。
私の返事は、ずっと誰かの都合だった。父のため。妹のため。家のため。聖女のため。
私のための返事は、いつも遅い。
「返事は、短くていいです。言葉が長いと、取られます」
ミロが言い切ってから、息を止めていたのに気づいたように小さく吸った。必死さが、生活の匂いを連れてくる。
「……ミロ」
「はいっ」
返事が速すぎて、逆に可笑しくなりそうで、私は唇を噛んだ。
可笑しくなる余裕があるなら、私はまだ戻っていない。
喉の奥の「はい」を、別の形にする。
「……理解しました」
声は震えた。でも、私の声だった。
書面室へ移ると、卓の上が整列しすぎていた。誓約書の束、朱の印、封蝋、面会簿。やさしさの顔をした秩序。
ディオニス大神官が杖を鳴らし、沈黙を作る。
硬い声が紙を撫でるように、条文が読み上げられていく。意味は全部追えないのに、冷たさだけは分かる。
「保護は恩恵ではない。手順だ」
その言葉が、私の胸の奥の鎖を正しい形に整えようとする。
監督官が、誓約書の端を揃えた。表情より先に、インクの匂いが近づく。
「期限は明朝まで。……いえ、今夜でも」
淡々と告げるだけで、脅しになる。善意の刃は、声を荒げない。
ミロが紙片を抱え、視線だけで私へ合図した。内容ではなく、入口を残すために。
彼は小声で言う。
「……番号、控えました」
紙片の端に、細い字で「第17条」と書かれているのが見えた。小さすぎて、怒りが湧く。
「……字が、小さすぎます」
私が呟くと、ミロの頬が熱で染まった。監督官の前で崩れないようにしているのに、耳まで赤い。
読み上げの終わりが近づくと、ある言葉だけが耳に残った。
誓約印。
その瞬間、聖痕が返事より先に脈を打つ。痛くないのに、痛みの形で。
私は手袋の上から手の甲を押さえた。息が浅くなる癖が、戻ろうとする。
署名台へ案内される。木の板が、あまりにもまっすぐで怖い。
溶けた蝋が落ちる音は、小さくて、だからこそ嫌に正確だ。
監督官が印面を押し当てる。鎖が物質になったみたいに、封蝋が沈む。
私の名の欄が、白すぎる。
羽根ペンを握る。指先が熱い。紙に触れた瞬間、熱が皮膚の内側へ潜る。
署名する。
線が私の名を作るたび、手の甲の聖痕が痛くない痛みで脈打った。祈りの光とは別の、焼ける熱。
息がしやすくなるどころか、空気が狭くなる。檻が完成した感覚だった。
「……守るために署名する。……でも、私まで渡さない」
声にした途端、監督官の視線がほんの少しだけ揺れた。人の欄が、ひと息だけ人に戻った気がしたのに。
すぐ、紙へ戻る。
「違反時の返りは、可能性としてあります。……噂は罪ではない。罰の前触れです」
具体は言わない。言わないから、想像が増える。都合の良い奇跡を封じるための、空白。
同室へ移されると、扉の外の気配が消えないまま残っていた。公の視線は、布みたいに薄くて、切れない。
扉が開く。
革と鉄と、遠い雪の匂いが入ってきた。
ルシアン様が入室し、状況を見て、足を進めかけて止まった。
近づいて止まる。その仕草が、私の胸を余計に痛くする。
止めないなら、手放すのか。
私の喉が冷える。返事の癖が戻りそうになる。
「……止めないんですね」
自分でも驚くほど、刺さる声が出た。沈黙に飲まれないための、釘。
ルシアン様の手が腰へ伸びかけて、そこで止まる。剣に触れない。触れられない。
代わりに、封蝋の印面へ視線が落ちた。ほんの短い間だけ。知っている顔を見るみたいに。
それが何より怖い。
「止めない」
短い。命令の形じゃない。確認の形だ。
「――止めたら、君が2度と選べなくなる」
その言い方が、私の中の誤解を裏返す。
冷たいんじゃない。ここで止めたら、私の選択が守られた扱いで奪われるのだ。
分かってしまうと、別の痛みが来る。分かっているのに、近づけない痛み。
「会えるのに、会ってはいけないみたい」
言葉が漏れた。恥ずかしさより先に、苦しさが出た。
ルシアン様の目が細くなる。怒りではない。耐える形だ。
「ここで触れたら、君が罰を受ける」
触れない理由が、私の身体へ降りてくる。さっきの熱が、答え合わせみたいに脈を打つ。
「……じゃあ、隣は」
言いかけたところで、扉の外がわずかに鳴った。
私もルシアン様も、同時に黙る。照れじゃない。制度に耳があると知っている沈黙。
それでも私は、引き返さない。
「……隣は、やめないで」
ルシアン様の息が、ほんの少しだけ乱れた。
「……離れても、隣はやめない」
その言葉だけで、私の胸の奥の鎖が、別の音に変わった。締め付けじゃなく、支えの音。
帰路の廊下は冷たかった。石の匂いが、蝋の匂いを薄めない。
ミロが布を取り出し、私の手を取ろうとして躊躇する。
「手、冷やします。……失礼します」
監督官の前で見せた完璧な礼を思い出しているのか、言葉が固い。
布が手の甲に触れた瞬間、熱は逃げないまま印の形を残した。消えない刻印が、皮膚の下で息をしている。
ミロは真剣すぎて布を巻きすぎ、私の手が包帯みたいになった。
私たちは無言でほどく。ほどく指が、同じ速さで動くのが可笑しいのに、笑えない。
「……誓約は、紙じゃないですね」
ミロが呟く。
「……匂いで来る」
私が答えると、彼は頷き、紙片を守るように胸へ押し当てた。
廊下の向こうから、回覧文書の束がすれ違った。封蝋の色が違う。印影も違う。
その瞬間、手の甲が焼けた。
同じ熱じゃない。さっきとは別の形で、刺すように。
私は足を止めた。息が浅くなる癖が、また戻る。
「……同じ熱じゃ、ないです。今のは」
ミロの声が掠れる。彼も気づいたのだ。
視界の端で、面会簿が棚へ戻されるのが見えた。背の角に、爪で擦ったみたいな新しい空白がある。
誰かが触れた跡。誰かが削った跡。
私の手の甲は、さっきすれ違った封蝋の輪郭だけを覚えていた。
命令は、1枚じゃない。
じゃあ、誰が、この記録に手を入れているの。
ここまでお読みいただきありがとうございます。署名の熱が示す刻印と面会簿の空白――次話で、誰が記録を書き換えたのかを追います。続きが気になったら、ブクマ&広告下の【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると励みになります!




