第20話 善意の紙束、首輪の音
封蝋つきの紙束が卓に落ちた。
乾いた音が、祈りより先に胸を叩く。続けて監督官が面会簿を閉じる。
かちり。首輪の留め具みたいな、嫌に正確な音だった。
「署名は、明朝まで」
言い切る声に温度はない。けれど私の喉だけが熱くなった。息を吸う前に、聖痕のある手の甲が勝手に袖へ隠れる。
神殿の書面室は静かだ。硝子窓の向こうで蝋燭が揺れても、紙の白さは揺れない。卓の上には誓約書の束、封蝋、朱の印、そして面会簿。整列の美しさが、やさしさの顔をしている。
監督官の手袋の指が条文を揃える。私の前に出されるのは、署名欄だけ。
紙の端に視線を滑らせた瞬間、「面会」「移動」「発言」という単語が刺さった。文の形をしているのに、刃物みたいだ。
読ませないのではない。読める時間を与えないのだと、身体が先に理解した。
隣でミロが紙束を抱え直した。肩が少しだけ上がって、すぐに落ちる。怒りを飲み込む時の癖だ。
「……字が、小さすぎます」
それだけ言って口を閉じる。笑えないのに、助かってしまう。私の心が折れそうな瞬間に、生活の音が挟まったから。
扉が開いて、杖の先が床を叩いた。
かつん。祈祷の合図。空気が儀礼に変わる。
大神官ディオニスが入ってきて、私の前の紙束を見下ろす。見下ろすのに、視線は私に向かない。向かう先は常に「手続き」だ。
「救うには、まず止めない手続きが要る」
その声は、善意の形をしていた。だから余計に冷たい。
監督官がすっと補足するように、紙束の端を指で弾いた。
「署名がなければ、施療院への供給手続きは止まります」
止まる。たったそれだけの単語が、病室の匂いと結びついてしまう。薬草、湿った布、汗。待合の咳。幼い声。
ディオニスが杖を軽く鳴らし、結論だけを置いた。
「確定は公開審問で」
いつかの言い方と同じだ。正しさが、個人の声を削る音。
私は唇を噛み、言葉を探した。拒否。反論。問い。ただしどれも、患者の顔を思い出した瞬間に形を失う。
「守るって言葉で縛られるなら……私は、何を守ってるの」
吐き出した声が震える。震えをごまかすために背筋を伸ばす。けれど紙は、姿勢で曲がらない。
もう1人、扉の影が動く。
黒い外套。革と鉄と、遠い雪の匂い。
ルシアンが入ってきた。視線が私の手の甲に落ち、すぐに紙束へ移る。彼は腰へ手を伸ばしかけて止まった。剣の柄に触れれば、守れる気がするのだろう。けれど守る相手は、今は紙の向こう側に閉じ込められている。
彼の指は剣へ届かず、代わりに封蝋の赤を見ていた。
「……分かった」
短い返事が、剣の抜けない音に聞こえた。
私はその返事を、味方のものとして受け取りたいのに、受け取れない。神殿の論理は彼の肩書を利用する。肩書は私の首に鎖を掛ける。
監督官が紙束の上に封蝋を置き直し、箱の蓋を少しだけずらして見せた。中で鍵が触れ合い、また音が鳴る。
かちり。
拒否できない形式だけが、目に残る。
「署名は、明朝まで」
繰り返す。繰り返すだけで、私が動くと知っているみたいに。
書面室を出ると、廊下の冷気が肺に刺さった。祈りの香が薄れて、石の匂いが強くなる。ここなら声が出るはずなのに、声は壁の方へ逃げていく。
ルシアンが私の横へ来る。来たのに、距離は残る。公務の線引きが、既に身体の間に引かれている。
彼が口を開く。
「……セレスティナ」
名を呼ばれただけで、胸の奥が跳ねた。続くはずの言葉を私は待ってしまう。
けれど彼の喉で何かが止まった。命令口調になりそうで、飲み込んだのだと分かる。私のための沈黙なのに、私は沈黙に殺されかける。
「止めたい。だが――止めたら君が傷つく。俺の手が、いちばん怖い」
絞り出した声は低い。けれどそれでも、言葉になったのは救いだった。
私は頷きかけて、止めた。頷いたら、また「はい」で終わってしまう。
袖の内側で聖痕に触れそうになり、指を丸めた。昔の檻に戻る感覚が、皮膚の裏から這い上がる。
私は彼を見上げる。
「……今のは、命令ですか。それとも、あなたの言葉ですか」
問いは刃になる。刃にならないと、私は守れない。
ルシアンの目が揺れる。彼が答える前に、遠くで誰かが足音を速めた。視線がこちらへ刺さる。私達の「私」が、また薄くなる。
ルシアンは何も言わなかった。言えなかったのか、言わなかったのか。区別がつかないまま、彼は半歩だけ下がった。
施療院の待合は、温度だけが生きていた。人の息。濡れた外套。木椅子の軋み。
私が入ると、何人もの視線が集まる。責める目ではない。頼る目だ。頼る目は、私の心を追い詰める。
小さな手が袖を引いた。
「……明日、も?」
声は弱いのに、問いは重い。私はすぐに「行く」と言えない。紙束が、首の後ろで鳴っている気がした。
喉の奥に涙が溜まり、飲み込む。泣けば楽になるのに、泣けば誰かが困る。そうやって黙る癖を、私は捨て切れていない。
ミロが私の横で紙束を抱え直す。ずしり。重いのは紙じゃない。たぶん、顔だ。
「手続き上って言葉、嫌いです」
ミロが低く呟く。患者の前では妙に立派に頷いて見せて、すぐに目を伏せた。背伸びの照れが、ここでも私を救う。
私は息を吸う。吸って、吐く。
「止めない。……止めさせない」
言った瞬間、喉の奥が痛んだ。約束は祈りじゃなく、負けの形をしている。それでも言うしかない。
患者の指が袖から離れない。温かさが、紙の冷たさに負けないでと告げている。
帰路の石畳を踏むたび、封蝋の赤が瞼の裏で光った。神殿の受付に戻ると、監督官が待っていた。待つというより、そこに置かれている。机と同じ硬さで。
彼は面会簿を開き、何かを書き足す。インクの匂いが鼻を刺す。次に、簿を閉じた。
かちり。
封蝋箱の鍵が鳴った。檻の鍵だ。開けるための鍵なのか、閉めるための鍵なのか、まだ分からない。
「署名は、明朝まで」
淡々とした声が、私の選ぶ権利を先回りする。
「遅れれば、施療院の配分は手続き上止まります」
言い換えただけ。なのに今度は、首の周りが締まった気がした。
私は紙束を受け取らない。受け取れば鎖だ。受け取らなければ、施療院が折れる。
どちらを取っても負けだと知りながら、私は手を伸ばすしかなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。明朝までの署名……セレスティナは何を選ぶのか。次話では善意の紙束の正体と、ルシアンの決断が動きます。続きが気になったら、ブックマーク&広告下の【☆☆☆☆☆】評価、ひとこと感想で応援いただけると励みになります。




