第19話 命令の封蝋
ミロが私の袖をつまんだまま、唇だけ動かした。
「胃が……礼法で縮みます……」
笑ってやりたいのに、笑えなかった。扉の向こうから流れてくる香と音より先に、背中へ刺さる視線が数になって降ってくる。私の名と、聖女という札と、噂という刃が、同じ場所に集まっている。
大広間へ足を踏み入れるたび、拍手の残り香が冷えていく気がした。施療院で受けた手の温度が、ここでは別の意味に翻訳される。
私は手袋の上から、手の甲の聖痕を押さえた。隠す癖が戻る。視線を上げない癖も。
「大丈夫です。歩幅、合わせます」
ミロはそう言って、礼法の手順を頭の中で唱えているのが丸分かりな硬さで私の斜め後ろに付いた。
中央へ近づくほど、会話の端が針になった。
「……騎士団長が、ずいぶん熱心に」
「保護ですって。囲っているだけでしょう」
「本物の聖女なら、もっと清らかに……ねえ?」
笑い声は柔らかいのに、私の喉を締める力だけは正確だった。
扇で口元を隠した侯爵夫人オデットが、私へ視線を滑らせた。
「まあ。名で呼ばれるなんて、特別ですね」
甘い砂糖菓子みたいな声だった。けれど、舌の上で溶ける前に針が残る。
「保護の範囲が広すぎると、誤解されますわ」
誤解という言葉が、責めるための道具に変わる。
監督官セヴェルが、黒い衣の影を引いて人の輪の外側に立っていた。視線は私ではなく、周囲の空気そのものを測っているみたいだ。
「噂は罪ではない。罰の前触れだ」
誰に言うでもなく落とされた声が、床を滑って私の足首に絡む。
私は息を吸い、吐くことを忘れそうになった。罰という単語が、体の内側で冷たく膨らむ。
「では、補佐なら安心でしょう?」
別の声がすぐに重なった。
「フィオナ様が付けば、民も納得しますわ」
名前だけが、正義の顔をして広がっていく。私の胸はちくりと痛んだ。私から取り上げたいのは祝福だけではない。隣も、選ぶ権利も。
ミロが銀盆の菓子を見つめ、真顔で監督官へ向き直った。
「こちらは……監査対象ですか?」
場の空気が少しだけずれる。誰かが笑いかけて、笑い切れずに喉で止める。
私は危うく口元が緩みそうになり、すぐに押し戻した。今、笑ったら、軽さにされる。
「食べ物は罪ではない」
セヴェルが淡々と返し、次に私へ視線を寄せた。
「面会は、整理します」
その言い方が、優しさの仮面をかぶった刃に聞こえた。守るためだと言いながら、自由を削る音。
人の輪が別の話題へ流れる隙に、私は壁際へ逃げた。胸の奥が、拍手の音に合わせて痛む。
そこへ、黒い軍服の影が寄った。前に立たない。触れない。けれど、半歩だけ横で私の視線の先を切る位置。
ルシアンだった。
「セレスティナ」
聖女ではなく、名で呼ばれた。たったそれだけで、背骨のあたりが温かくなる。温かさが、すぐ怖さに変わる。
「……その呼び方、ここだと燃えます」
「燃やさない」
短い返事の硬さに、公務の鎧が見えた。それでも、私の中の欲が顔を出す。言葉が欲しい。言葉が欲しいのに、言葉が罪になる。
「なら、言葉で」
私の声は小さかった。けれど、引っ込めなかった。
ルシアンの視線が揺れる。隣にいるのに、触れない距離のまま、息だけが近い。
「それは、命令ですか」
私は彼の沈黙に先回りしてしまった。過去の私は、沈黙で罰をやり過ごした。今も同じ癖に飲まれたくない。
「違う」
ルシアンは即座に否定した。
「決めるのは君だ。俺は、隣にいる」
その言葉の形が、檻にも支えにも見えて、胸が揺れた。守られることが怖い。守られないことも怖い。
「なら、名で呼んで。聖女じゃなく、私を」
口にした瞬間、私は自分でも驚いた。条件を出すなんて、昔の私なら出来なかった。
ルシアンの瞳が僅かに柔らかくなった。その変化だけで、私は泣きそうになる。
ミロが少し離れた場所で、何かを言い切った私たちを見て、口の形だけで励ました。けれど、すぐにその表情が消える。
人の波が割れた。
硬い靴音が、音楽より確かな規律を連れてくる。王宮使者レオンが、封蝋付きの小箱を胸の高さに捧げ持っていた。赤い封が灯りを吸って、血のように深い。
「騎士団長ルシアン・グライツ。ご命令です」
声は丁寧で、逃げ道がない。
「……今、この場で」
レオンが念を押すように付け足した。私の喉がきゅっと縮む。公開の場が、処刑台に似て見えた。
セヴェルが、ほんの僅か顎を動かしただけだった。けれど、それで場が整列する。読まれ、見られ、記録されるための形が作られていく。
ルシアンの顔色が、ほんの少しだけ変わった。変わったのに、すぐ戻した。戻したからこそ、命令の重さが分かった。
彼は箱を受け取った。封蝋には触れない。割らない。受領の動作だけが、体を硬くしていく。
赤が、彼の指先に近づくだけで痛かった。
「封蝋は、割るな」
レオンではない声が落ちた。セヴェルの低い囁きだった。
私は背中に冷水を浴びせられたみたいに震えた。守るための規則が、今夜は恋を切る刃になる。
ルシアンが息を吸う。私に向けて言葉を作ろうとする。
「君を――」
そこまでだった。人の輪が、命令に合わせて動く。彼の口が閉じる。私の胸が落ちる。
私は自分の癖を噛んだ。黙れば楽だ。黙れば罰は軽くなる。そう教え込まれた日々が、喉の奥から戻ってくる。
でも、今夜の沈黙は、私の選択にしたくない。
「……今のは、命令ですか。それとも、あなたの言葉ですか」
震えを押し込めて言った。周囲の視線が針に戻る。
ルシアンは答えなかった。答えられなかったのか、答えないのか。分からないことが、罰より痛い。
「返事は、次でいい」
私は言い切った。自分の声で、自分を繋ぎ止めるために。
ルシアンは短く頷きもしないまま、身を翻した。公務の鎖が、彼の背中を引いていく。
去った背に、赤い封蝋の残像が焼き付く。あれは命令の色だ。けれど、彼の沈黙の色でもあるのかもしれない。
私は手袋の上から聖痕を押さえ、吐けない息を飲み込んだ。次に奪われるのは、祝福か。隣か。私の名か。
それでも、確かめる。沈黙を、彼の癖にさせないために。
読了ありがとうございます。命令の封蝋が割れないまま、ルシアンの沈黙だけが残りました。次話で「誰の言葉」だったのか、そして封蝋の中身が何を奪うのか――。続きが気になったらブックマーク&広告下の☆☆☆☆☆評価で応援いただけると励みになります。感想も大歓迎です。




