第18話 公務の同席、私情の罰
紙の上に「同席者:騎士団長ルシアン・グライツ」と書かれた瞬間、胸が冷えた。公務なら会える。そう思っていたのに、公務ほど記録に残る。残った記録は、私を守る盾にもなるけれど、同じ形で私を縛る鎖にもなる。
施療院長室の窓は曇っていた。消毒の匂いと、古い木の机の匂いが混じる。リーネ院長は白衣の袖口を指で押さえたまま、私の差し出した書類から目を離さない。
「……公務。そう書けば、通る。でも、燃えます」
燃える。書類が燃えるのではない。噂が燃え、監査が燃え、現場が燃える。
私は頷いた。頷けるくらいには、もう黙る癖を折ったつもりだった。
「燃えてもいい。……奪われるよりは」
私が何を奪われると思っているのか。リーネは聞かない。ただ、目の下の影が深くなる。
ミロは机の端に紙束を並べ、封蝋の道具を揃えていた。真面目すぎる顔で、蝋を温め、型を確かめる。
「封蝋、もう1回いきます!」
押した瞬間、蝋が潰れて歪んだ。
「……やり直します!」
紙が増えた。私の心臓も、同じ速度で重くなる。
リーネの手が震えたのは、判を押すほんの少し前だった。息を整えるふりで、彼女は手洗い桶に指先を浸す。水滴が落ちる音が、妙に大きい。
それでも彼女は署名し、判を押した。乾く前の墨が、まだ柔らかい。
私はその柔らかさが怖かった。署名は鍵だ。鍵は扉を開ける。けれど鍵は、扉を閉める道具でもある。
「同席って、回数も書くんでしたっけ……?」
ミロが小声で言った。書類の余白を見つめたまま、喉の奥で息を止めている。
回数。私が会えた回数が、私の罪の回数に換算される未来が透けて見えた。
署名の紙を胸に抱え、処置室へ向かう廊下に出ると、視線が増えた。施療院の視線は、いつもは助けを待つ目だ。けれど今日は、見物の匂いが混ざっている。
扉の向こうで短い指示が飛んだ。低く削られた声。
それだけで、呼吸が浅くなる。
扉が開く。彼がいた。
ルシアンは私を見る。見ているのに、距離は詰めない。鎧の擦れる音が近いのに、指先が届かない。監督官セヴェルが壁際に立ち、揺れない目で私たちを測っているからだ。
処置台には、布で覆われた腕があった。事故で裂けた皮膚、赤い腫れ、熱。感染の匂いが薄く漂う。患者は歯を食いしばっている。
私は手袋を外し、聖痕のある手の甲を隠す癖を、指の力で抑えた。
「始めます」
声は落ち着いて聞こえた。内側は違う。会える安堵と、会えたせいで失う恐怖が、同じ場所でぶつかっている。
ルシアンが半歩だけ前に出た。次の瞬間、止まる。
「……仕事をしろ。君の手を、汚させるな」
言葉が短い。優しさが、刃の形をしている。
私は患者の腕に触れ、祝福を流した。温度が引き、痛みの震えがほどけていく。傷口が閉じ、赤みが薄くなる。患者の呼吸が整った。
その瞬間、処置室の外から拍手が起きた。数は多くない。けれど音は鋭い。
私は手を引きながら、思わず呟いた。
「……拍手って、温かいのに。次の瞬間、刃になるんですね」
ルシアンの視線が揺れた。揺れたのに、彼は動かない。動けない。
患者が私の手に縋ろうとして、途中で躊躇した。セヴェルの視線が刺さったからだ。
「ありがとう、聖女さま……」
呼び方が、私の胸を削る。私の名前はここにあるのに、記録に載せるには危険だと言われる。
私は笑おうとして、笑えなかった。笑ったら、私情に見える。私情は罰になる。
「会えるのに、会ってはいけないみたい」
言葉が漏れた。自分でも驚くくらい、幼く聞こえた。
ルシアンが私の手元へ視線を落とした。そこに触れたい、と書いてある目だった。
彼の指が動きかけて、止まる。
「ここで触れたら、君が罰を受ける」
声が低い。私だけに届く音量なのに、監督官の目がそれを拾う気配がした。
私は手を握りしめ、聖痕の花弁を隠す癖を、今度は逆に利用した。触れたい気持ちを、握力で押し殺す。
「私の手は、もう……誰のものでもない」
言い切ったら、少しだけ楽になった。守られることが、檻に聞こえる過去を思い出すから。
処置が終わり、私は手袋をはめ直した。ミロが説明役を買って出て、見舞客に向かって姿勢を正す。
「しゅ、しゅりょう……施療です! 処置は終わりました!」
噛んだ。真面目な顔で噛んだ。患者の家族が目を丸くして、次に笑った。
笑い声は柔らかい。けれど柔らかいものほど、形を変えて広がる。
扉の外へ出ると、空気が冷えた。セヴェルが紙束を受け取り、淡々と目を走らせる。善意を条文に詰める人の手つきだ。
「帳簿と面会簿は照合する」
宣告は短い。短いのに、逃げ道が塞がる音がした。
ミロが反射で、小さな字の紙束を引き寄せた。条文番号メモ。彼の癖だ。
「……はい」
その返事が、飲み込んだ涙の形に聞こえた。
セヴェルは息も乱さず、言葉だけを置く。
「記録は守る。……守るために縛る」
私は背筋を伸ばす。伸ばすしかない。
「噂は罪ではない」
目が私を見る。裁く目ではない。監視する目だ。
「罰の前触れだ」
「噂が立てば、許可は凍る」
淡々とした口調のまま、彼は私たちの間に見えない線を引いた。
私は自分の声を探して、言葉を引き寄せた。
「守られるためじゃない。――奪われないために、選ぶ」
自分に言い聞かせるみたいに言った。セヴェルの口元が、ほんの少しだけ動く。笑いではない。確認だ。
廊下の向こうで、誰かが小声で会話していた。扉の隙間から流れてきた言葉が、耳に引っかかる。
「欠片の保管場所が変わった」
別の声が、笑うように続けた。
「……寄進額、跳ねるってさ」
心臓が嫌な跳ね方をした。何の欠片か。誰が動かしたのか。考えるほど、喉が乾く。
私は足を止めない。止めたら、聞いていたと悟られる。
帰路の回廊で、ほんの短い隙間ができた。角を曲がった先、柱の影。そこにルシアンが立っていた。護衛の位置、監督官の影、全部を計算した立ち方だ。
彼は私の名を呼びかけて、飲み込む。
代わりに、息だけが近づいた。
「甘くするな。……君を守るためだ」
私の中で何かが揺れた。甘さを求める自分と、甘さで誰かを燃やす自分が、同じ顔で立っている。
私は頷きかけて、首を横に振る。
「……優しさが、全部……記録に縛られる」
言った瞬間、泣きそうになった。泣いたら、また黙る癖が戻る。戻したくない。
ルシアンの拳が壁に触れそうになって、触れずに止まる。触れない。その選び方が、私の権利を守る溺愛だと、頭では分かる。
分かるのに、胸が痛い。
彼が何か言いかけた。口が開いた。
そのとき、少し離れた場所で靴音が止まった。セヴェルの気配だ。視線が、柱の影まで届く。
ルシアンは言葉を切った。私も、名前を飲み込んだ。
神殿へ戻る途中、ミロが私の隣で紙束を抱え直した。礼法どおりの角度で頭を下げ、セヴェルが去った瞬間に壁へもたれた。
「……礼法って、筋肉ですね……」
笑いそうになって、私は唇を噛んだ。笑っていい場面なのに、笑いさえ記録に残りそうで怖い。
ミロが差し出したメモには、細い字が並んでいた。封蝋番号、日付、同席者。そこまではいつもどおりだ。
けれど端に、赤い印が押されている。
赤の横に、淡々と書かれていた。
寄進監査:施療院/同席者照合:騎士団長。
ここまで読んでくださりありがとうございます。公務の名で守られるほど、逆に縛られていく――次話で寄進監査の正体に踏み込みます。面白かった、続きが気になったら、広告下の【☆☆☆☆☆】評価とブクマで応援いただけると励みになります。




