第17話 祈祷紐を結び替える
「公務の結び目です。――ほどけたら、噂が噛みつきます」
ミロの指が私の手首の祈祷紐をつまみ、結び目をほどいて、また結んだ。柔らかな紐が肌に触れるだけなのに、喉が乾く。
扉の向こうで紙が擦れた。続いて、靴音。迷いのない間隔が礼拝前室へ近づいてくる。
私は息を吸い込む前に、祈りより先に、背筋を伸ばした。
扉が開き、監督官セヴェルが顔を出した。外套の裾が揺れない。感情の無い歩き方だ。
「ここにいましたか」
机に置かれたのは、面会簿ではない。もっと薄い札束。新しい札の赤い縁が、やけに目に刺さる。
「本日より特別監督。外出と面会は、都度の確認が要ります」
言葉は丁寧で、温度だけが無かった。
私は祈祷紐を握り、結び目の位置を確かめた。公務と私情を切り替える合図。そう習ったはずなのに、札と同じ形に見える。
「……噂が立っているのですね」
口にした瞬間、舌が冷えた。自分から火種に触れた気がした。
「噂は罪ではない。罰の前触れだ」
セヴェルは淡々と告げ、札の端を指で揃える。指先の動きが、封蝋を撫でる時と似ていた。
ミロが礼法どおり深く頭を下げる。完璧すぎる所作が、逆に苦しい。
「承知しました」
その声が、私の背中まで固くする。
セヴェルが去った後、ミロは壁に肩を預け、息を吐いた。
「礼法って筋肉ですね……」
呟いた途端、彼は自分の言葉に驚いたように口を押さえる。
私は笑いそうになって、飲み込んだ。笑ったら、それも噂の餌になる。
回廊へ出ると、冷たい石の匂いが肺に入った。遠くで鐘が鳴る。音が規則みたいに整っている。
曲がり角の先に、黒い外套が見えた。ルシアンだ。こちらを見ているのに、近づきすぎない距離で立っている。
彼は足を進めて、そこで止まった。触れられない場所を、わざと選ぶみたいに。
「顔色が悪い」
「平気です」
私は言い切ってしまい、すぐ後悔した。平気な顔をするほど、遠ざけてしまう。
ルシアンの視線が、私の祈祷紐に落ちる。結び目が、彼の喉を締めるように見えた。
「……離れても、隣はやめない」
低い声だった。命令ではない。なのに、胸の奥が痛む。
私は返事を作れず、視線を逸らした。逸らした先の壁面に、自分の影だけが薄く映る。隣の影は、少し離れた所に落ちている。
「セレスティナ」
名で呼ばれた瞬間、足首がほどけそうになった。救いだった呼び方が、今は刃の形をしている。
「……今は、公務です」
祈祷紐を指で押さえ、言葉にした。自分の逃げ道を、自分で作るために。
ルシアンは頷くだけで、追わなかった。追わない優しさが、いちばん苦しい。
午後、侯爵夫人の茶会へ向かった。香りの強い花が飾られた室内は、笑い声で満ちている。甘い菓子の匂いが、鼻の奥を痺れさせた。
私が席に着くと、令嬢たちの視線が揃う。拍手が起きた。温かいはずの音が、肌を撫でて、すぐ刺に変わる。
「ご立派でしたわ。公開審問で、あそこまで……」
「さすが祝福を扱う方。騎士団長殿も、名で呼ばれたとか」
その言葉が転がる速度は、祈りより速い。
私は笑みを保ったまま、茶器の縁を指でなぞった。震えを隠すための小さな儀礼だ。
「名で呼ぶなんて、親密……いえ、保護でしたかしら」
柔らかな声。柔らかい刃。
私の喉が鳴った。弁解すれば守れる、と身体が昔の癖で囁く。けれど弁解は燃料だ。ここで言葉を増やせば、面会簿に増えるのと同じになる。
「……拍手って、温かいのに。次の瞬間、刃になるんですね」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
令嬢の頬が少しだけ引きつる。沈黙が落ちる。その沈黙さえ、こちらの負けに数えられそうで怖い。
「距離を取っているのは、やましいからではなくて?」
別の令嬢が、にこりとしたまま言った。
距離。さっきセヴェルが使った言葉の硬さが、同じ形で戻ってきた。
胸の奥が、冷たい水で満たされる。社交界は外だと思っていた。けれど、同じ語彙がここにある。
「慎ましさは、罪の証拠ではありません」
私は短く返した。長くすると、絡め取られる。
背後でミロが、私の頬のあたりを指でそっと引き上げる仕草をした。社交微笑の角度を保て、という合図だ。真顔すぎて、また笑いそうになる。
「それより、補佐が必要なら……フィオナ様が最適ですわよね」
その名が出た瞬間、称賛が止まった。空気が不自然に静かになる。誰かが息を浅く吸い、すぐ飲み込む。
私は茶を口にした。甘さが舌に残るのに、喉を通らない。
「補佐なら安心。神殿も、社交も、きっと穏やかに」
穏やか。正義の顔をした檻の言葉だ。
私は祈祷紐を思い出し、結び目の位置を心の中で確かめた。穏やかさは、誰のための穏やかさか。
囁き声が、卓の端から流れてくる。
「砕けた紋章石の欠片……手に入るなら、寄進額が跳ねるそうよ」
「欲しい方はいくらでも。証拠なんて、飾りにすればいいのに」
笑い声が混じった。胃の奥が締まる。欠片は、ただの石ではない。真実の形を残すものだと知っている人間がいる。
帰り道、外の風が頬を冷やした。私は歩幅を乱さないようにして、神殿へ戻った。乱したら、弱さが見える。見えたら、また札になる。
面会室の扉前で、セヴェルが待っていた。扉脇の金具に、札が吊られている。赤い縁の札。特別監督の印だ。
ミロがわずかに震えながら、札の角を見た。視線は札そのものではなく、押印のそばの小さな数字へ滑る。
「……番号、控えました」
囁きは私にだけ届く。彼の癖が、私の呼吸を助けた。
「距離を取った行動も、記録になります」
セヴェルが面会簿を開く。頁の端に、爪で擦ったみたいな新しい空白があった。紙が削れて、繊維が立っている。消されたのか、抜かれたのか。答えは無いのに、嫌な予感だけが残る。
私は視線を上げ、監督官の顔を見た。そこには何もない。だからこそ怖い。
私は祈祷紐を結び直した。公務の結び目。私情の結び目。どちらも、誰かに触らせないために。
距離を取れば噂が弱まると信じていたのに、距離は証拠扱いに変わる。なら、距離では止まらない。流れを止める。
社交の言葉と監督官の言葉が同じ形で噛み合っている。偶然じゃない。
誰が、面会簿の情報に触れている?
読了ありがとうございます。噂と記録の裏で、面会簿の空白が誰の手に繋がるのか――次話で一気に追います。続きが気になったら、ブックマーク&広告下の【☆☆☆☆☆】評価で応援していただけると励みになります。ひと言感想も大歓迎です。




