第16話 面会簿に載る名前
公開審問で勝ったはずの朝、机の上で赤い封蝋だけが増えていた。施療院へ送る報告書。公文書の写し。受領の目録。紙が重なるたび、自由が薄くなる気がする。
隣でミロが蝋を見つめ、喉を鳴らした。
「封蝋が割れたら終わりです!」
「終わりって、何が」
「え、えっと……全部です。改竄されます。言葉も、数字も」
ミロは封蝋番号を小声で復唱し、指先で写しの端を揃えた。真面目さが盾になると信じている。その信じ方が、私は怖い。盾は、裏返ると鎖になる。
机の端に、薄いカードが置かれていた。社交の招待状。封の蝋が上品すぎて、触れたくない。
署名欄に私の名。その横に小さく、添え書きがある。騎士団長ルシアン殿、と。
胸の奥が冷えた。誰が、いつ、何を見て書いたのか。勝利の証はもう誰かの手の中で、形を変え始めている。
ミロが鼻先を赤くして言う。
「行きますか。行かないと、また噂になります」
噂。口にしただけで、空気が硬くなる。
私は息を吸って、吐いた。
守られるためじゃない。奪われないために、選ぶ。
「行きます。……でも、話すことは選ぶわ」
施療院の廊下は、薬草と石鹸の匂いが混ざっていた。手当ての声。布が擦れる音。ここだけは、拍手じゃなく息がある。
包帯の腕を抱えた少年が私を見るなり、深く頭を下げた。
「聖女さま、ありがとうございます! あのとき、熱が引いて」
その呼び方が、まだ刺さる。私は笑おうとして、唇の端だけを動かした。
「私の名前で呼んで」
少年は目を丸くして、慌てて言い直す。
「セレスティナさま!」
胸の鎖がわずかに緩む。名は救いだった。だからこそ、奪われたときの痛みが大きい。
廊下の奥で、ルシアンの黒い外套が見えた。距離はある。近づけば、公務が私情に見える。彼も分かっているから、こちらへ来ない。
それでも視線だけが絡む。冷たくて、熱い。
私は頷く代わりに、手元の目録を持ち上げた。公務の形を保つための合図。
ルシアンは小さく顎を引いた。言葉はない。けれど、離れても隣をやめない、と言われた気がした。
施療院長のリーネが書類を受け取るとき、判の手が震えた。
「……助かります。ですが、噂が」
「噂に勝つのは、奇跡じゃない。記録です」
ミロが即答して、自分の声に驚いた顔をした。真面目さが先に走る。その横顔に、私は息を抜きそうになる。
「菓子は、監査対象ですか」
「いま言うこと?」
私の声が少しだけ軽くなった。すぐに、喉の奥が痛くなって黙る。軽さは油断だ。
茶会の部屋は香が強すぎた。甘い匂いが、礼儀の刃を隠す。
令嬢たちは私を囲まない。少し離れて、きちんと座る。その距離が、優しさに見えてしまうのが怖い。
「ご立派ですわ。さすが、真の……」
言いかけた言葉が途中で飲まれる。誰かが咳をして、空気がずれる。
代わりに別の声が落ちる。
「騎士団長が、名で呼んだそうですのね」
音は柔らかい。けれど意味は針だ。
「親密……いえ、保護でしたかしら」
私は反射で弁解しそうになった。違う、と。あれは檻じゃない、と。
でも言葉は燃料になる。ここでは否定も証拠にされる。
私はカップを持ち上げ、香りを嗅ぐふりをした。手が震えないように。
「それなら、聖女フィオナさまが補佐に就けば安心ですわね」
「拍手が止まると、呼吸が浅くなるとか……可憐ですもの」
妹の名が出た瞬間、部屋の温度が少しだけ上がった。称賛は蜜で、同時に毒だ。私は笑顔のまま、指先だけ冷える。
私が距離を取れば噂が弱まる。そう思って、ルシアンのことを話さないようにしたのに。
話さないことさえ、勝手に形にされる。
拍手が脳裏に蘇る。あの大聖堂の熱。私の名が呼ばれた瞬間の、救われる感覚。
次の瞬間に、鎖が増える音。
「……拍手って、温かいのに。次の瞬間、刃になるんですね」
部屋が静まった。令嬢たちの目が、私の手の甲の聖痕へ集まる。見られている。触れられていないのに、切られている。
「距離を取るのは、やましいからではなくて?」
その問いに、私は笑えなかった。
「距離を取るのも、私が選びます」
言った途端、空気がさらに柔らかくなる。柔らかさが怖い。優しさに見える罠だから。
帰り際、誰かが笑って言った。
「面会簿にさえ、名前が残りますものね」
胸の奥で、鈍い音がした。
夕方、神殿の面会室前。机の上に置かれた帳面は、ただの紙のはずなのに重かった。
監督官セヴェルは無表情で、ページを開いた。
「噂が立てば許可は凍ります」
凍る。言葉が冷たいのに、手続きの温度はない。正しさだけがある。
私は帳面の欄を見た。公務の面会。立会い。署名。
そこに、ルシアンの名があった。役職でもなく肩書でもなく、名だけが残る形で。
その名前が載る限り、私たちは見られる。
喉の奥が痛んだ。隣が欲しいのに、隣にいるほど罪になる。
私は視線を上げた。
「私は、何をすればいいんですか」
「規則に従ってください」
セヴェルは淡々と続ける。
「噂は罪ではない。罰の前触れだ」
前触れ。まだ殴られていないのに、殴られる未来が確定する言い方。
私は拳を握りしめ、ほどいた。怒りで壊せない。壊したら、それも噂になる。
守られるためじゃない。奪われないために、選ぶ。
「……では、私は記録を残します」
セヴェルの眉が動いた。わずかに。
「それは、あなたの権利です」
横でミロの手が動いていた。帳面を覗かないふりをしながら、紙片に数字を書いている。番号だけ。印のある欄の、端にある小さな記号まで。
帳面の端に、爪で擦ったみたいな新しい空白がある。紙の毛羽立ちだけが、妙に目に残った。
ミロはそれを見なかったふりをして、数字だけを救い上げる。
セヴェルが去ると、ミロは壁にもたれて息を吐いた。
「礼法って、筋肉ですね……」
その言い方に、私は笑いそうになって堪えた。笑ったら、泣きそうだったから。
ミロが声を落とす。
「セレスティナさま。ここ、見てください」
帳面の端に、赤い字が走っていた。明日から特別監督。
その直下に、ルシアンの名。黒いインクで、整いすぎた筆跡。
世界が少しだけ傾く。私の隣が、制度の赤で囲まれる。
「……昨日は、無かったです。この赤印」
ミロの言葉で、背筋が冷えた。誰かが、今この瞬間も帳面に触れている。
噂は偶然じゃない。面会簿の情報に、誰が触れているの。
読了ありがとうございます。面会簿の赤印は、味方の顔で近づく鎖の始まり。次話、誰が帳面に触れ、ルシアンの名を燃料にしたのかが動きます。続きが気になったらブックマーク&広告下の【☆☆☆☆☆】で評価、ひと言感想も頂けると励みになります。




