第15話 ただいま、私の人生
「……手、冷たい」
神殿の大扉が閉まった瞬間、私の指先から熱が抜けた。ついさっきまで、視線の針とざわめきに刺されて立っていたのに、静けさが来た途端に足が止まる。勝ったのに、身体だけが勝ち方を知らない。
膝が笑うのを誤魔化そうとして、息を吸う。喉の奥がひりつく。壇上で言葉にしたはずの私が、廊下の石の冷たさに負けそうになる。
隣で靴音が止まった。ルシアンが手を伸ばしかけて、最後の瞬間に引いたのが分かった。触れられたら崩れる。触れられたら、私はまた「器」に戻る気がした。
代わりに、黒い外套が肩へ落ちてくる。抱かれない。縛られない。けれど逃げられない温度だけが、背中へ広がった。
「歩けますか」
「……はい」
返事が喉の癖で出そうになって、私は舌を噛む。
「……少し、待ってください」
私の声に、ルシアンの目が瞬いた。怒らない。急かさない。私の時間を奪わないまま、彼は半歩だけ位置をずらす。通路を塞がないのに、私の背後だけは守っている距離だった。
外套の縁に指をかけると、布に残る体温がきゅっと胸を締めた。怖い。優しさが怖い。勝利の余韻より先に、反動の冷えが来て、私は自分の手を見下ろす。
聖痕は隠れない。白い輪郭が、今日の私を証明してしまう。
その証明が、私を自由にしたはずなのに。
「……セレスティナ」
名で呼ばれる音が、まだ痛い。嬉しいのに、怖い。
廊下の先、庭へ抜ける小さな出口が見えた。白い花の匂いが、風に混じっている。さっき聖遺物に触れたときの匂いと同じで、私は理由もなく泣きそうになった。
小庭へ出ると、光が柔らかくて眩しい。石と葉の湿った匂い。外套の温度が背中を離れないまま、私は花の影に立ち尽くした。
ルシアンは少し離れて、でも逃げ道の前には立つ。前じゃない。隣の手前だ。
「勝って終わりじゃない」
低い声が落ちた。
私はうなずけない。終わりじゃないと知っている。終わりにしてくれない人たちがいる。父の指輪の紋章石が砕けた音が、まだ耳の奥で鳴っている。あの音は終わりの始まりだ。
「正直に言う」
ルシアンが息を吸う。腰に触れかけた手が止まる。剣じゃない。彼はいつも、抜けない場所で守ろうとする。
「俺は、君を囲うつもりだった」
外套の下で、私の肩が跳ねた。やっぱり。優しさの顔をした檻。守ると口にして、選ぶ権利を奪うやり方。私はそれを知っている。
胸の奥で、金具が鳴った気がした。鎖が擦れる音。呼ばれない名前。命令の前に出る返事。
従えば傷は浅くて済むと、何度も自分に言い聞かせてきた。だから私の身体は、怖いときほど「はい」を探す。探して、見つけて、差し出そうとする。
足が勝手に後ろへ引く。花の影が揺れて、世界が少し遠のいた。
「……やっぱり」
声がかすれる。私の中の「はい」が、返事として整列しようとする。従えば楽になる。反射が私を家へ戻そうとする。
でも、ルシアンは追ってこない。
「だから怖い」
彼は近づかないまま言った。
「俺の『守る』が、君の鎖になるのが」
胸が大きく揺れた。怒りたいのに、怒れない。私の鎖を知った顔で、あなたが自分の弱さを言うのは卑怯だ。
卑怯なのに、救いだった。
私は外套の端を握りしめる。握ったら、戻れなくなる気がした。
「檻は作らない」
ルシアンの言葉が、花の匂いを割ってくる。
「君が選ぶ場所で、隣に立つ」
その瞬間、私の中で何かがひっくり返った。囲われる覚悟で身構えた私に差し出されたのは、所有じゃない。彼の恐れだった。
追われない。命令されない。だから、私が選べる。
選ぶのが怖い。けれど、今日の私はもう壇上に立った。
「……追わないんですね」
「追ったら、君が息を止める」
淡々とした言い方が、逆に優しい。私の呼吸を見ていたのだと思うと、喉の奥が熱くなる。
私は聖痕のある手を、外套の外へ出した。隠さない。今の私は、隠したらまた奪われる。
「隣、ください。檻じゃなく」
言い切った瞬間、胸の痛みが少し軽くなった。返事は「はい」じゃない。私の言葉だ。
ルシアンの目が僅かに揺れた。勝利の場で見せなかった揺れ。
「望む形で。君が決める」
私の中で、家に戻るための扉が閉まる音がした。代わりに、別の扉が開く。
私は息を吸って、白い花の匂いを肺に入れた。帰る場所は家じゃない。帰るのは、私の人生だ。
「ただいま、私の人生」
言葉が、世界に落ちた。
「……おかえり、セレスティナ」
名で返されて、私は泣いた。情けなくはない。今日は、泣いていい。
小庭の入口で、紙の擦れる音がした。
ミロが半身だけ覗いて、私たちを見て固まった。耳まで赤い。視線が迷子のまま、紙束を胸に抱えている。
「い、今のは聞いてません! 紙だけ置きます!」
言い訳の勢いだけで近づき、足元に紙束を置いて、すぐ背を向けた。
礼法どおりに頭を下げようとして、紙がずれそうになり、慌てて押さえる。真面目な手が震えているのが見えて、私は涙のまま笑った。
「……字が、また小さい予感がします……」
ミロは最小の声で呟き、逃げるように廊下へ消えた。
残された紙束の上に、見慣れない封蝋が混じっているのに気づく。赤い蝋が、やけに硬そうに光っていた。
私が指を伸ばす前に、足音が増えた。仕事の歩調。迷いのない速さ。
使いの者が現れて、深く頭を下げる。丁寧な声が、花の匂いを冷やした。
「至急です。――本日付の封蝋」
差し出された封筒は、重い。紙の重さじゃない。条文の重さだと、身体が先に理解してしまう。
ルシアンが受け取った瞬間、表情だけが変わった。甘さの顔が消えて、剣を抜けない場所で戦う人の顔になる。
「……分かった」
その声を聞いただけで、私の外套の下が冷える。勝利の後には必ず、別の鎖が来る。
「今度は、何を『守る』って言うんですか」
私の声は震えていなかった。震えたら、また戻る癖が勝つから。
ルシアンは答えず、封蝋へ指をかけた。
ぱき、と硬い音がした。鍵が回る音に似ている。開くのは檻か、逃げ道か。
裂けた紙の隙間から、最初の文字が覗く。
特別監督――。
ここまでお読みいただきありがとうございます。セレスティナが「ただいま」と言えた瞬間、書きながら胸が熱くなりました。次話、封蝋の中身――「特別監督」が動きます。面白かった/続きが気になったら、広告下の【ブクマ】と【☆☆☆☆☆評価】で応援いただけると励みになります。




