第11話 名を呼ぶ距離、隣の距離
「守るために前に立たない。――隣へ行ける距離にいる」
そう言われた瞬間、胸が少しだけ楽になった。
同時に、石段の上が処刑台みたいに高く見えた。
神殿の控室は、石の匂いと紙の匂いが混ざっていた。私の隣で、ミロが紙束を抱えて小刻みに揺れている。揺れるたび、角が私の袖に当たって痛い。
「順序、順序……まず聖遺物の判定、それから契約先の宣言……」
口の中で転がすみたいに暗唱して、ミロは自分の指を折った。折った指が足りなくなると、慌てて別の紙を足した。
「ミロ、紙が増えてる」
「増えてません! 増えてるように見えるだけです!」
見えるだけ、なわけがない。腕から滑り落ちた紙を拾おうとして、ミロは礼儀正しく頭を下げたまま額を机の角にぶつけた。
「だ、大丈夫ですか」
「大丈夫です! 痛いですけど!」
痛いのに大丈夫と言う癖まで、私に似なくていいのに。
私は自分の手の甲を見下ろした。聖痕の輪郭は薄く、でも消えない。息を吸うと、昨日と同じ白い花の匂いが喉の奥に触れた。
この匂いが、私の人生を壊しに来たのか。救いに来たのか。まだ判断できない。
判断できないまま、壇上へ行く。
扉の向こうから、ざわめきが布みたいに押し寄せてくる。民衆の息と、貴族の香と、神官の沈黙。全部が「公開」という形で固まっている。
誰かの咳払いも、椅子の軋みも、全部が私に向けられた矢みたいに聞こえた。
私の喉が勝手に「はい」の形を作りかけた。
戻れば楽。従えば早い。痛みは短い。
そう囁く癖を、私は舌の奥で噛んだ。
「……セレスティナ」
呼ばれて、心臓が跳ねた。肩書きじゃなく、名だけ。
ルシアンが戸口に立っていた。黒い外套の影が、控室の灯りを細くする。目は冷たいのに、声は押しつけてこない。
「行くぞ」
命令に聞こえないのが、逆に怖い。逃げてもいい、と言われているみたいで。
だから私は、逃げないための言葉を探した。
「……怖い、です」
言った瞬間、涙が出そうになって、慌てて瞬きを増やした。
「怖いと言えるのは強い」
「強くありません。喉が、勝手に……」
私はうまく続きが言えなかった。喉の内側に、鎖の跡が残っている気がする。
ルシアンは私の前に立たなかった。半歩だけ後ろ。私が伸ばせば触れられる距離、でも私が拒めば触れられない距離。
「守るために前に立たない。隣へ行ける距離にいる」
繰り返されると、その言葉が誓約みたいに胸に沈んだ。
回廊の手洗い場で、私は指先を濡らした。冷たい水が、手の震えだけを正直にする。
「怒鳴らない」
独り言みたいに言うと、ルシアンの視線が来た。
「何だ」
「怒鳴ったら、私が悪者になるから」
言葉にした途端、怖さが形を変えた。黙るための怖さじゃない。話すための怖さだ。
怒鳴れば、父は泣く。妹は怯えたふりをする。群衆は正義の顔で私を殴れる。
その絵が、頭の中に勝手に完成してしまうのがいちばん怖い。
ルシアンの口元がほんの少しだけ動いた。笑いではない。息を整えるみたいな動き。
「なら、言葉を置け。短く。曲げられない形で」
私のための助言なのに、私を子ども扱いする匂いがしない。腹が立たないのが不思議だった。
むしろ、腹が立たないことが怖かった。優しい言葉は、いつも鎖の内側から来たから。
会場入口は、思っていたより狭かった。狭いのに、外側から覗き込む目が多い。扉が開くたび、視線が流れ込んでくる。
護衛の手が腰の剣に触れかけて、止まった。ここは神殿だ。刃は、簡単な正義にならない。
書記が進み出て、深紅の封蝋が付いた議事録を掲げた。蝋は光を鈍く返し、神殿の紋が潰れないように盛り上がっている。
喉が乾く。あの蝋の下に、今日の私が閉じ込められる。
「封蝋、触っていいですか……」
ミロが小声で言いかけて、私に袖を引かれて口を閉じた。すると今度は、封蝋の端を目だけで追って、唇が小さく動いた。
「……番号だけ……」
声にならないまま、証拠の形を覚えようとしている。ミロの怖さも、私と同じ方向を向いていた。
ディオニス大神官が杖を床に鳴らした。乾いた音が、ざわめきの形を切る。
「順に従え。それが最も公平だ」
公平。私はその言葉が好きじゃない。公平はいつも、弱いほうを先に折る。
でも今日だけは違うかもしれない。公開は、さらし者の場じゃない。逃げ得を許さない刃だ。
父も、妹も、ここから逃げられない。私も逃げられない。だからこそ、ここで折れたら終わる。
石段の下で、待っていたみたいにマルクスが立っていた。涙を拭うふりをして、指輪の紋章石を撫でる。祈りより先に、欲が動く仕草。
「セレスティナ。お前は優しい子だ。だから分かるだろう。家のためだ。皆のためだ」
優しい、はいつも檻の鍵だった。
隣でフィオナが微笑む。昨日と同じ、泣ける睫毛。
「お姉様は、心が弱いのです。きっと怖くて、正しい判断ができません」
正しい判断。誰が決めるの。
私の喉がまた「はい」の形を作りかけた。反射の形。父に合わせる形。
私は唇を噛んで、それを潰した。
ルシアンが前に出ないまま、私の横へ寄った。肩が触れない距離なのに、空気だけが硬くなる。
「開始前の印象操作は無駄だ」
淡々とした声が、父の仮面を少しだけ剥ぐ。
マルクスの眉が動いた。怒鳴りたいのに、怒鳴れない。ここは公開だ。外聞が命だ。
「……娘が危険だと分かったら、隔離して頂きたいだけだ」
隔離。言葉だけで、足首に冷たい輪が嵌まる。
フィオナの笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。拍手が起きない未来を想像してしまったみたいに。
私は石段を見上げた。上へ行くほど、顔が消えて、目だけが残る。針みたいな視線。
足がすくむ。逃げたい。戻りたい。楽になりたい。
その全部を抱えたまま、私は第1歩を踏み出した。石が硬い。足裏が痛い。痛みがあるから、今ここにいると分かる。
段を上がるたび、息が浅くなる。喉が、また「はい」を作ろうとする。私はそのたび、舌で口の中を押し返した。
ルシアンの靴音が、半歩遅れて付いてくる。前じゃない。後ろでもない。隣へ行ける距離。
振り返りたくなる。確かめたくなる。だけど振り返ったら、その瞬間に足が止まる気がした。
止まったら、私はまた回収される。丁寧な言葉で、正しい札で、正しい隔離で。
壇上の中央に、聖遺物が置かれていた。銀の枠の水晶。昨日、私を避けなかった光。
見た瞬間、白い花の匂いが濃くなる。幻じゃない。私の手の甲が熱を持った。
私は掌を握り込んで、ほどいた。怖さで握った手は、触れる手になれない。
ディオニスの杖がまた鳴る。
「今この場で、応えを示せ」
空気が止まった。私の呼吸も止まりそうになる。
遠くでミロが息を吸い込みすぎて、むせた音がした。誰かが咳払いで押し潰す。
ディオニスは表情を動かさないまま、続けた。
「応えが無ければ隔離だ」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
壇上でセレスティナが応えを示す瞬間、誰が味方で誰が敵かがはっきりします。
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