第10話 夜明け前の切り方
「……伯爵領には、3日。――家の紋章には、繋げません」
言い切った瞬間、喉が焼けたみたいに痛んだ。声は震えているのに、指だけが先に動いて封蝋の箱を押さえる。戻らない手。夜明け前の空気が、それを試すみたいに冷たい。
卓の上には誓約書、押印用の蝋、そして面会簿。紙が積まれているだけなのに、檻の匂いがする。
ミロが羽根ペンの先を揃えた。インクの染みた指先が、やたら几帳面に紙端を撫でる。
「順番だけ、決めましょう。……迷うと、戻ります」
私は頷きかけて、反射で口が形を作った。
……はい。
そのまま出したら、また器に戻る。胸の奥が冷える。
息を吸い直す。
「……はい。……いえ。私が決めます」
ミロの目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。救われた気がして、怖い。
扉の外で金属が触れ合う音がした。かちり、じゃない。歩くたびに鳴る、束の音。
門番レネトが顔を出す。視線は私ではなく、机の書類と印章に吸い寄せられている。
「夜番の印を。……札を……いえ、面会簿を」
言い直すたびに、鍵束が1度だけ鳴った。安全の音。そう信じたい音。
レネトは机の隅に小さな木札を置き、扉の蝶番を確かめる仕草をした。規則に縋る人の手つきだ。
私はその木札を見て、胸がざわついた。記録は守られるはずなのに。
ミロが紙に「3日雨」と書き、線を引いた。
「切る、じゃなくて……切り分ける。領と、家を」
その言い方が、刃より痛い。私は家から逃げたいのに、逃げ道まで制度で塞がれたままだ。
そこへ杖が床を打つ音が落ちた。硬い音。祈祷より先に空気を切る音。
ディオニス大神官が入ってきた。白い衣の裾が揺れるだけで、部屋の温度が下がる。
「署名がなければ供給手続きは止まる」
慈悲じゃない。条件だ。
彼は面会簿に指を置き、紙の端を撫でた。指先が止まる。……紙だけが、妙に新しい。
「情ではなく、形で守れ」
命令みたいに聞こえて、私は反射で肩をすくめた。けれど、その硬さが檻ではなく盾だと、頭のどこかが理解している。
ルシアン様は黙って半歩だけ前へ出た。剣に手を伸ばさない。代わりに、折り目のついた硬い紙片を取り出す。
「彼女の言葉は、彼女のものだ」
それだけで、息が少しだけ入る。守る、と言わない守り方。
「公開審問の席。発言の順。記録の保全。……ここに署名を」
感情のない言葉が、私の首輪を外すみたいに働くのが不思議だった。
ディオニスは短く頷いた。肯定ではない。許可だ。
部屋を出ると、回廊の灯りが遠い。夜明け前は、音が大きい。
ルシアン様と並ぶだけで、私の身体は身構える。守られる=檻。刷り込みは、簡単に剥がれない。
彼が口を開きかけ、止めた。
「……」
言葉が命令の形になりそうで、飲み込んだのが分かった。だから余計に、胸が痛い。
「告白は後でいい。――今は、君の権利を守る」
彼の声の奥に、抑え込んだ熱がある。独占が漏れそうなのに、形に変えて飲み込んでいる。
「誰にも渡さない。……だが、君を縛る言葉は使わない」
告白。言われた瞬間、熱が頬へ走った。そんな言葉を、この人の口から聞くとは思わなかった。
同時に、怖さも来る。近いほど、後で壊れる。
私は聖痕の手を隠し、指を握り込んだ。
「命令はしない。……言うのは君だ」
私はまた「はい」を作りかける。喉が、戻る癖を思い出す。
けれど今夜は、引き返したくない。
「……はい。……今度は、私のはいです」
口にした途端、胸の奥が揺れて、涙が出そうになる。たったそれだけで、私はまだ弱い。
ルシアン様の視線がほんの瞬間だけ、廊下の影へ滑った。誰もいないはずの場所へ。私の背筋が冷える。
その視線の動きが、私を現実に引き戻す。ここは安全じゃない。神殿の壁は厚くても、記録の紙は薄い。
そして私は思い出してしまう。父の指輪の紋章石が、祈りより早く命令を出していたこと。優しい言葉で鎖を増やすやり方を。
私は勢いで言ってしまった。逃げ道を自分で塞ぐみたいに。
「なら、名で呼んで。――聖女じゃなく、私を」
沈黙が落ちた。怖い。言いすぎた。後悔が遅れて喉を締める。
でも彼は、私を見下ろさなかった。隣の距離で、低く。
「セレスティナ」
名前が耳に触れた瞬間、胸がきしんだ。痛いのに、呼吸が楽になる。矛盾が、私の中で確かに生きている。
施療院の待合は、夜でも人がいる。眠れない咳、熱、怯え。私の知らない痛みが並んでいる。
ミロが私の後ろで「3日雨」と指で数え、数え終えた瞬間だけ、やり切った顔をした。真剣なほど、可笑しく見えてしまう。
私が笑いそうになったところへ、子どもの声が刺さる。
「明日も……光、来ますか」
目が合う。小さな手が布を握っている。答えが遅れたら、その遅れが不安になると分かる。
私は頷いた。今度は、逃げの頷きじゃない。
「来ます。……だから、切り方を間違えません」
切る=冷酷。そう思っていた。
でも切らない=もっと冷酷だ。家の都合で私が黙れば、この待合の人たちが明日から困る。領民を盾にされる。
だからこそ、3日だけ残す。最低限を残して、毒だけ断つ。
それは手加減じゃない。言い逃れを潰すための倫理だ。
待合の片隅で、誰かが囁いた。
「……面会簿」
名前は聞こえない。けれど言葉だけが、床を滑って背中へ触れた。
夜番の机へ戻ると、紙の匂いが濃い。灯りは低く、影が長い。
ミロが最終確認として面会簿を開いた。明日の土台。私たちの逃げ道。
ページをめくる指が止まる。
そこだけ、空白だった。
1枚だけ、綺麗に抜かれている。
レネトの顔色が変わり、鍵束が激しく鳴った。
「そんなはずは……鍵は、私が……!」
守る側の声が、壊れかけている。責任が自分に落ちる恐怖が、言葉を割る。
ミロは震えながら、懐の紙片を押さえた。見えたのは、細い数字の列だけ。抜かれたページの番号。鍵穴みたいな小ささ。
「……抜かれてる。……でも、番号だけ……」
準備したから安心、のはずだった。準備したから狙われた。そう気づいた途端、胃が冷える。
私は欠けた頁の切り口を見た。繊維が新しい。今夜、ここにいた手の仕事だ。
明日、私は言う。空白があっても、言う。
ただ、その空白を誰が作ったのか。
面会簿のページが1枚だけ、綺麗に抜かれていた。
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