第1話 穢れの器に、聖痕が刻まれた
冷たい石が膝に張り付く。王宮大聖堂の白いドームの下、私は壇下に跪かされていた。首ではない。鎖は胸元の拘束具に繋がれ、呼吸のたびに肩甲骨が軋む。私の役目は、光の隣で穢れを吸うだけだ。
壇上では妹のフィオナが、白い衣の中心に立っている。涙で濡れた睫毛までが、祈りの演出みたいに揺れていた。民衆の歓声が波になり、私の上を踏み越えていく。
「聖女候補! 慈愛の乙女! オルネア伯爵家の誇り!」
誇り。私のいない場所で、私の時間が誇りに変換されていく。
「セレスティナ」
父の声が落ちてきた。朗々として、誰に聞かせても恥ずかしくない声だ。指に嵌まる大ぶりの紋章石が、祈りの灯りを集めて鈍く光っている。
「儀式の妨げになるな。家のために穢れを引き受けろ」
否定すれば、私が悪い。そう刷り込まれてきた。だから喉が反射で動く。
「……はい」
返事をした瞬間、胸元の鎖跡が服の上から痛んだ。鍵束を腰に下げた下級神官が、私の横で小さく息を呑む。金属が触れ合う音が、やけに大きい。
ディオニス大神官が聖遺物を掲げた。銀の枠に嵌められた水晶。古い祈りの痕が刻まれ、光を溜め込む器のように透けている。大聖堂の空気が、祈りの言葉で満たされていった。
誰もが、妹が選ばれると信じている。信じているというより、疑う余地がないみたいに。
光が……迷った。
水晶の奥で生まれた淡い輝きが、壇上のフィオナへ真っ直ぐ伸びない。伸びかけて、止まる。間が落ちる。静けさが、刃みたいに立った。
フィオナの笑みが、ほんの僅かに薄くなる。拍手を探すみたいに視線が泳ぎ、次の瞬間にはまた祈る顔に戻る。でも、光は戻らない。
私は息を止めた。来ないなら来ないでいい。そう思ったはずなのに、この間が怖い。避けてくれるはずだと、どこかで願っていたことが剥き出しになる。
光が、壇下へ落ちた。
私を避けない。鎖を伝い、冷たい金属の導線を辿って、胸元へ流れ込んでくる。思わず肩を引くと、鎖が鳴った。光が追って伸びる。拘束具の刻印が浮かび、痛みもなく熱だけが走った。
焼け落ちる音がした。金具が砕けるのではなく、薄い膜が剥がれるみたいに――外側だけが崩れる。解放ではない。むしろ、私が公の場に露出する。
白い花の匂いがした。香を焚いた甘さではなく、冷えた空気に混ざる、誇示しない匂いだ。
手の甲が冷たくなった。輪郭だけが刻まれる感覚。血も出ないのに、皮膚の内側が震える。私は見下ろした。そこに、淡い線が浮かび上がっていた。聖痕。
どよめきが遅れて押し寄せ、祈りの声を押し潰す。私の周りの空気が変わる。視線が針になり、肌を刺す。
「……光が、壇下へ?」
「聖女さま……?」
誰も私の名を呼ばない。ただ肩書きと噂だけが飛ぶ。私は唇を噛んだ。助けてと言えば、誰かが罰を受ける。そう思ってきた。だから息だけが浅くなる。
「待て!」
父が叫んだ。慈父の仮面を剥がさないまま、声だけを強くする。
「あれは危険だ! 拘束を強化しろ! 娘は弱い。守らねば」
守る。いつも、その言葉で鎖が増えた。下級神官が鍵束に指をかける。震える手が、規則に縋って動こうとする。
フィオナが壇上から身を乗り出した。天使みたいな顔で、優しさの形を選ぶ。
「お姉さまは、弱いもの。隔離して差し上げて……」
隔離。優しい単語ほど、私の喉を締める。返事の癖が喉まで上がる。
「……」
言えない。はい、と。
そのとき黒い外套が、私と鍵の間に落ちた。近づくほど声が低くなる男の気配。冷えた雪みたいな匂いがした。
王国騎士団長。ルシアン・グライツ。
腰の剣へ手が伸びかけて、止まる。誰かが小声で言った。
「剣は抜くな……神殿内での流血は禁じられている」
ルシアンの指が、柄から離れた。代わりに彼は、私を見た。見下ろすのではない。確かめるみたいに、目だけで。
「名前は」
肩書きじゃない。聖女でも器でもなく、名前。
胸の奥が、痛むのに熱い。言えば奪われる。言わなければ、私はまた無いままだ。迷いが舌に絡みつく。
「……セレスティナ」
口にした途端、空気が変わった。ほんの僅か。けれど私には分かる。呼ばれる入口が開いた。
ルシアンは短く頷き、下級神官へ手を伸ばした。
「鍵を渡せ」
「で、ですが……規則ですので……」
鍵束が小さく鳴る。神官の視線が父へ逃げる。父の笑顔が戻り、穏やかな声で押す。
「そうだ。規則に従え。家の娘だ。返せ」
返せ。その言葉で私の背中が冷える。ルシアンの目が、氷のまま動かない。
「規則なら、今は神殿の手続きが優先だ」
彼の手が鍵束を掴んだ。奪う動きなのに、乱暴さはない。手順を止めるための最短の力だ。鍵の音が、逃げ道の音に聞こえた。
ディオニス大神官の杖が床を打った。乾いた音が大聖堂の奥まで届き、どよめきを切り裂く。
「――記録せよ」
大神官は水晶を下ろさず、私の手の甲を見たまま言った。
「真偽は明日、公開審問にて裁く。今この場では確定とせぬ。ゆえに、候補者は神殿の規則に従い移送する」
明日。公開審問。言葉が並ぶだけで、私の呼吸がまた浅くなる。確定していない。だからこそ、今夜は穴だ。誰の手でも届く夜だ。
父が足を進めた。外聞の作法に沿った笑みを貼りつけたまま、声だけを低くする。
「娘は怯えている。私が連れ帰り、守るべきだ」
守るべき。守る名目で、また鎖を増やすつもりだ。私は唇を開きかけて、音を出せなかった。言った瞬間、誰かが罰を受ける。その恐れが根に絡みつく。
ルシアンが私の前に立った。前に立つのに、押し潰す距離ではない。逃げ道を残す距離だ。
「セレスティナ。俺の後ろから出るな」
命令みたいに聞こえたのに、不思議と檻の音がしなかった。名が先にある。肩書きじゃない。
父の紋章石が、灯りを吸い込みたがるみたいに鈍く濃く光った。握り込む指の関節が白くなる。祈りではない顔が、ほんの瞬きだけ覗く。
フィオナの瞳がこちらを刺した。拍手の消えた沈黙が、彼女を焦がしている。
ディオニス大神官がまた杖を鳴らす。儀式は止まらない。私の人生だけが、今止まっている。
移送の指示が飛び、周囲が動き始めた。私は立とうとして膝が震え、白い花の匂いが遠のくのを感じた。
その耳元で、父が誰かに囁いた。
「今夜のうちに、元へ戻す」
私の背中に、見えない鎖がもうひとつ落ちた気がした。
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次回、ルシアンが差し出したのは檻ではなく「鍵」でした。
覚醒したセレスティナの反撃が始まります!




