聴書の楽しみ
その1 ソヤはカソテキ?
目に負担をかけないために、耳で情報を得ることに努めている。
ウエブで検索した記事なども、音声で聴く。自作の小説やエッセーもいちおう書き上げると、読み上げさせる。AIが進歩しているとはいえ、残念ながら、まだまだ満足の域には達していない。
筆者の場合、扱うテーマの関係から、「過疎化」という用語が頻出する。これをAI氏は「カソテキ」と読んでしまう。秘境・祖谷をソヤと読む。「いや」とルビ(振り仮名)を振ってあっても、お構いなしなのである(二五年九月現在)。
日本語は難しいのだろうか。
その2 ありがたい朗読サービス
機械のやることなので、めくじらを立ててもしょうがない。
では、これを人間がやるとどうなるか。
視覚障害が進み、ラジオが手放せなくなった。よく聴くのはニュース、漫才や落語、文学作品の朗読などである。さすがにプロである。ニュースの原稿には首をひねるものがあるが、おおむね合格点が与えられる。
文学作品に関しては、ラジオだけでは物足りないので、ウエブの朗読サイトや、全国視覚障害者情報提供施設協会のサピエ図書館を利用している。サピエの場合、50万件に及ぶ点字・録音図書目録の検索や、それぞれのデータのダウンロードができる。
ただ、多くのボランティアさんによって支えられているサービスだけに、プロの放送を聴くようなわけにはいかない。
その3 無礼を承知で
最も気になるのは、朗読のスピードだ。速い。そのために少し長い熟語などは、ちゃんと発音できてないこともある。
次にイントネーション。棒読みもあれば、逆に抑揚をつけすぎて聴き取りにくいケースも。特に述部で力を抜かれると「である」のか「でない」のか迷ってしまう。
もう一つだけ言わせていただくと、句読点・改行・空白行を無視していることが多い。文章は生き物である。点・丸ひとつとっても、作者の思いがこもっているのだ。
その4 低下する対話力
「小うるさい奴だ」
とお叱りを受けるのは、承知の上だ。
何も、これらのことを、ボランティアさんの責任に帰そうとしているわけではない。時代の風潮ではないか、というのが筆者の結論だ。
日本人がプレゼンテーション能力に劣ることは、早くから指摘されてきた。そこまで話を飛躍させなくても、最近、対話力が落ちている気がしてならない。
キンキン、ギャーギャー、ボソボソ・・・。話下手に拍車がかかっているようだ。せっかちになって、イライラし、思いやりをなくした日本人が増えてきたということか。
いくらAIが進歩しても、人をうならせるような「読み上げ」はできないだろう。名朗読者が少なくなっていく社会は、寂しい。




