8 ゼロ
◇
片足をかばって立つ少女に、怪物は容赦なくカマを振り下ろす。
同時、カマキリの怪物が目を見開く。
目の前にいた少女が、こつぜんと姿を消したのだ。
それは、まばたきする間もない一瞬の出来事。
異常事態に怪物は言葉を失う。しかしすぐに我に返ると、少女の姿を草原に探す。血走った眼球が、ギョロギョロとせわしなく動く。
「どこに隠れた! 出て来い!」
小脇に少女を抱えた銀髪の少年――ゼロは、目の前のクレーターの、ずっと向こうにいるカマキリに。
「こっちだ」
怪物が、とっさに振り返る。
少年は透き通るブルーの瞳で、まっすぐに怪物を見る。
赤いTシャツと白い長ズボンを身にまとい、足元にはクタクタなブラウンのブーツ。背中に羽織った漆黒のマントが、暖かな風を受けてなびく。
「あの小僧、いつの間に娘を……」
悪魔の目元に警戒の色が宿る。どうやらゼロを敵対者として認識したらしい。
と、脇に抱えた紫髪の女の子が。
「あ、あなたは……」
「ゼロ」
短く答えると、少女を下ろす。
少女は、片足をかばうように「おっとと……」とバランスを取る。
「あれ? 足ケガしてるの? 大丈夫?」
ゼロは心配になり、少女の足を見つめる。
「……正直、きびしいわね」
少女の声には元気がない。パッと見ただけで、相当疲れているのがわかる。
「悪いけど俺、回復魔法は使えなくてさ……」
傷ついた相手に何もしてあげられず、申し訳なくなる。
「あとで村のヒーラーに頼むから大丈夫よ。……生きて帰れたらの話だけど」
「そっか」
「あたしはサーニャ。あんた早く逃げたほうがいいわよ」
「なんで?」
「あのカマキリ、A級悪魔よ。人間にかなう相手じゃないわ」
「知ってるよ」
「えっ」
少女の雰囲気から言って命に別状はなさそうだ。ひとまず安心する。
サーニャをその場に残して、大地を蹴る。一瞬にして地面が離れていく。
サーニャが首を後ろに倒し、口をあんぐりと開ける。
「なっ!?」
クレーターを軽々と飛び越えたゼロは、黒いマントを激しくバタつかせながら落下する。そして悪魔の目の前に、音もなく着地。たった一度のジャンプで、A級悪魔との間合いが、完全に消えた。
目の前には緑の怪物。ずっと後方には巨大なクレーター。クレーターの向こう岸には傷ついたサーニャ。
驚異的なジャンプを目の当たりにしたサーニャは、目を見開いて少年の背中を見つめる。
「ウ、ウソでしょ!? なに、あのジャンプ力!?」
少年の、人間離れした跳躍力に、サーニャは驚きを隠せない。
怪物は、一瞬のうちに目の前までやってきた少年を、警戒しながら見下ろす。
(なんだ今のジャンプ力は……。魔法か? ……いや、距離を詰めてきたところを見ると魔法使いではなさそうですが……。かと言って武器を持っているようにも見えませんね)
魔法使いは、魔法という飛び道具を使って戦うため、相手との距離があるほど有利に戦える。半面、接近戦にはめっぽう弱い。少年が魔法使いなら、わざわざ距離を詰めるのはおかしい。
「はじめまして少年。私の名前はカマキリ男」
ゼロが足元から見上げていると、カマキリ男は何事もなかったかのようにあいさつした。
「俺は勇者だ」
「……なに?」
瞬間、カマキリ男の全身が小刻みに震える。
「く……くく……」
怪物の口から、とぎれとぎれに声が漏れる。カマキリ男は、カマで口を押さえて、声を漏らさないように、必死に我慢しているように見えた。と。
「あーーーーーーーーっはっはっは!」
わき目もふらず腹を抱えて笑う怪物。
「くっくっく。こいつはいい。勇者と言ったのですか。あなたが?」
「なにがおかしい」
心底おかしそうに笑う怪物。
ゼロがその理由を尋ねると、怪物は急に真顔になり。
「そんな、ふざけたものが存在してたまるか」
冷たい目つきでピシャリと言い放つ。それは明確な否定。いや、拒絶と言ってもいい。
なぜそこまでの不快感をぶつけてくるのか、ゼロにはわからない。
カマキリ男の目つきは、どこかゼロを軽蔑していた。
そんな怪物を、ゼロは、なにも言わず見返す。
「なんですか、その目は?」
カマキリ男の声からイラ立ちが漏れる。
ただ見つめていただけなのに、どうやら気に障ったらしい。
「べつに」
淡々と返すゼロ。
その瞬間、怪物の目が吊り上がる。
「なめるな!」
怒りをあらわにしたカマキリ男が、力任せにカマを振り下ろしてくる。
瞬間、ゼロは姿をくらます。
「なに!?」
怪物が固まる。
敵対者が一瞬にして消えたことに動揺を隠せていない。
怪物は微動だにしないまま、大地に向けている視線を、ゆっくりと横へ動かす。
振り下ろされたカマの真横に、ゼロはいた。
少年は、一瞬で、元いた場所からわずかに横へ移動したのだ。
「な、なかなか素早いようですねえ」
口調こそ冷静なものの、その顔はピクピクと引きつっている。
「もちろん、今のは本気じゃありませんよ?」
「早く本気出せよ」
「なんだとキサマァーーーーーーーーーーーッ!」
ゼロの挑発に、怪物が激昂する。
怪物が力任せにカマを振り下ろす。その攻撃が、ゼロの首を刈り取る瞬間、少年は膝を曲げてかがむ。大ガマが少年の頭上スレスレを通過して、空気を切り裂く。少年は、またもやギリギリでカマの軌道から抜け出すことに成功する。
しかし、かわしてもお構いなしに、連続攻撃を繰り出してくる悪魔。
「そらそらそらそらァァァァァァッ! どうしたァァァァッ! 避けるだけで精一杯かァァァァァッ!」
ヒュンヒュンと風切り音をさせながら、左右のカマが振り回される。無数に繰り出される超高速攻撃。少年は人間離れした反応速度で、そのすべてをギリギリのところでかわす。
少年の常人離れした身のこなしを目撃したサーニャは。
「す、すごい! あの高速攻撃を簡単に!」
カマキリ男は目にもとまらぬ速さで攻撃を続け、少年に息つくヒマも与えない。
「私のカマは切れ味バツグンだっ! 一撃でも当たればアウトだぞ! 疲れて動けなくなった時が貴様の最後だァァァァァッ!」
――数分後。
「はあ……はあ……はあ……はあ……」
草原のど真ん中で、疲れ果てたカマキリ男が肩で息をする。
「ふ、ふん。体力だけは自信あり、ということですか」
「お前と違ってな」
とくに感情を込めずに言い放つ。
ゼロの挑発に、カマキリ男のコメカミで、血管がピクピクと、はち切れんばかりに脈打つ。
「どうやら本当に死にたいようですね」
「目つきの悪いカマキリなんかに、俺は負けない」
「おっとぉ? カマキリ差別はそこまでですよ」
と、カマキリ男がゼロの背後を見て、急に動揺する。
「な、なんですかあれは……」
怪物はただならぬ様子。一体何事だろう。
「え?」
気になって背後を振り向く。視線の先には、なにもない。
無防備になった少年に、カマキリ男が。
「バカめ! 引っかかったな!」
言いながら思い切りカマを振り下ろす。
騙された。気づくと同時、すぐに正面を向き直る。巨大なカマが目の前に迫っていた。直後。
パシィッ! 小気味の良い音が鳴る。
ゼロが怪物のカマを白羽取りしたのだ。
「なんだと!?」
一撃で大地にクレーターを作るほどの、超破壊力の攻撃が、いとも容易く防がれる。両者の体格は何倍も違う。だと言うのに、悪魔よりも明らかに小さいゼロは、そのハンデをまるで感じさせない。
超怪力を誇るカマキリ男は、攻撃があっさりと止められた事実に動揺を隠せない。
「ぐおおおおおおおっ……」
怪物が力まかせにカマを引き抜こうとする。しかしカマはビクともしない。怪物の顔が、疲労にゆがんでいく。
(な、なんだこの怪力は!?)
その時、怪物の瞳が何かに気づいたようにピクリと動く。
(ん? 待てよ……)
カマキリ男は、両手でカマを受け止めている少年を睨みつけて、唇の端を不気味に吊り上げる。
「くっくっく。両手がふさがっているぞ小僧!」
もう一方の大ガマが、ゼロの首めがけてなぎ払われる。
真横から迫るカマに、ゼロがハッとする。
しかしすでに遅かった。
ヒュンッという風切り音と共に、大ガマがゼロの首を真横に切り裂いた。