6 メギド
サーニャの額を一筋の汗が滑り落ちる。鼓動が早くなり、息が切れる。音がどこか遠くに行ってしまい、急速に現実感が失われていく。
「さようなら魔法使い」
カマキリ男が別れの言葉を告げた。
(……く! こ、こうなったら、いちかばちか、練習中のあの魔法に賭けるしかない……!)
今にも飛びかかってきそうな怪物を前にして、サーニャは最後の手段を取ることを決意する。
少女は「ふう……」と深く息を吐くと、精神を集中させて全身の魔力を開放する。途端、少女の全身から、光り輝く魔力が噴き出す。これまでとは明らかに違う、絶大な魔力のゆらぎ。並の魔法使いでは決して扱うことのできない圧倒的な魔力量。
しかし激しい魔力の放出は、術者の急激な消耗を招く。チャンスは一度しかないだろう。もしも失敗したらその時点でアウト。これはサーニャにとって最後の賭けだった。
「ほう。素晴らしい魔力だ。では、この魔法を見届けたら村を滅ぼすことにしましょう」
怪物は、少女の放つ常人離れした魔力に感心する。
サーニャは魔力を維持したまま両手の指を組むと、目を閉じた。それは、まるで祈りを捧げるような姿勢。そのポーズのまま、サーニャは微動だにしなくなった。額には、すでに珠のような汗が浮かんでいる。全身を強烈な疲労感が襲う。ゼエゼエと呼吸が乱れ、すでに肩で息をしている。さすがのサーニャでもここまでの魔力を長時間維持するのは不可能だ。時間が無い。急がなくては。
(村にはシスタたちがいる。ここで、この怪物を止めないと、たくさんの犠牲が出る。なんとか……。なんとか成功して……!)
離れた位置で見つめてくるカマキリ男は、サーニャの出方をうかがっているのか、微動だにしない。
両者は草原のど真ん中で対峙したまま全く動かない。
のどかな草原に重苦しい時間が流れる。遠くで小鳥がさえずる。穏やかな陽気がふりそそぐ。柔らかい風が色鮮やかな草花をそっとなでる。怪物さえいなければ最高の一日になっただろう。
しばらく時間が経過した。先にしびれを切らせたのはカマキリ男だった。
「どうしたのです? 魔法を撃つんじゃないんですか? それとも勝てないと悟って神様にお祈りでしょうか」
挑発を織り交ぜながら出方をうかがうカマキリ男に、魔法使いは、なにも答えない。ただ黙々と祈り続けるだけ。淡い紫色の髪が、そよ風に揺れる。
「なにがしたい? やるならやってみろ。それともただの時間稼ぎか?」
カマキリ男の言葉の端々(はしばし)から、イラ立ちが漏れる。
「くだらん。ただのコケおどしか」
怪物がそう吐き捨てた時、祈った姿勢のままサーニャが静かに目を開く。
「まだ気づいてないみたいね」
「……なんだと?」
カマキリ男の周囲が、突然、影に包まれる。自身に降りかかった異変に、怪物が不思議そうに顔を左右する。
「なんだ? 急に暗く……」
次の瞬間、ハッとしたカマキリ男が、頭上を見上げる。
「な、なんだこれは!」
はるか上空を見て驚愕するカマキリ男。
岩のように巨大なカマキリ男を、はるかに凌駕する巨大な火球が、空に浮かんでいる。火球の表面には、古代文字のような紋様が無数に浮かぶ。
超巨大な球体。膨大な魔力の塊。それが太陽の光をさえぎって、カマキリ男の周囲に影を落としていたのだ。
あまりにも強い魔力を放つ火球に、釘付けになっているカマキリ男。怪物は言葉を失って呆然と立ちすくむ。
その隙を、サーニャは見逃さない。
「獄炎よきたれ。メギド」
祈りを解いたサーニャが、片手を静かに振り下ろす。
瞬間、巨大な火球が、真下にいる無防備な巨体に高速落下した。
「し、しまっ――」
カマキリ男が反応するよりも早く、火球が全身を飲み込んでいく。それはまさに一瞬の出来事だった。直後、爆炎が天に上る。
「ぐおーーーーーーーーーーーーーーっ!」
火柱の中からの絶叫。
持てる魔力のすべてを使い切ったサーニャが、ガクリとヒザをつく。魔法使いは、ゼエゼエと肩で息をしながら、燃え盛る炎を見つめる。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
体に力が入らない。全身の疲労がひどく、立ち上がることすらできない。しかしすべての魔力と引き換えに発動した魔法は、いまだ巨大な火柱として、目の前に存在していた。それこそが魔法を成功させた証。しばらくすると息が整ってきた。疲労もわずかではあるものの、抜けてくる。
サーニャは村を守ったのだ。自らが育ったルラ村を、自分自身の手で守り抜いたのだ。
「やった……」
心の底から安堵する。
「よかった……。これで村のみんなが助かる」
そう思うと、魔法を成功させたことが急にうれしくなってくる。
「にしても、ずっとうまく使えなかった魔法が、この土壇場で成功するなんてね! さっすが、あたし! あーっはっはっは!」
高らかに笑う。はるか遠くまで届く笑い声が、小鳥たちのさえずりをかき消して、草原のBGMを書き換える。
少女は、目の前に迫るピンチの中で、練習中だった高位魔法を成功させて、有頂天になった。自画自賛する少女ではあったが、事実、サーニャが成功させた魔法は並の魔法使いに使える代物ではない。十六歳という若さでこれほどの魔法を習得したサーニャは、まぎれもなく天才魔法使いだった。――と。
「人間すげええええええええええええええッッッッッ!」
絶叫が、サーニャの笑い声をかき消す。
「え?」
笑い止んだサーニャがポカンと口を開ける。
「まさかここまでやるとは! ひさびさに感動したッッッ!」
燃え盛る炎の中から聞こえる声は、ひどく興奮していた。
炎の中でカマキリのシルエットがゆらめく。
「ウ、ウソでしょ!?」
信じられない光景に、サーニャがあわてて立ち上がる
いまだ立ち上る火柱の中から、怪物がのそりと姿を現す。その全身は燃え盛る炎に包まれていた。
「見てください、このカラダ! 炎属性になってしまいましたよ! これがパワーアップってやつですねえ!」
サーニャの前方で仁王立ちする怪物は、全身を炎に包まれているというのに、お構いなしに、まくし立てる。
「さて。今度はこっちから行きますよ」
カマキリ男が大地を蹴る。炎に包まれた巨体が、はるか上空へ飛び上がった。とてつもないジャンプ力。相当な体重があるであろう緑の怪物は、その重さをまるで感じさせない華麗なる跳躍を少女に披露した。
サーニャはその光景に唖然としながら、怪物の姿を目で追いかける。頂点に達した巨体が、今度は急速に落下してくる。
炎に包まれた巨体は、一瞬のうちにサーニャの頭上に迫ると、勢いに任せてカマを振り下ろした。
「食らいなさい!」
食らえばひとたまりもないことを直感し、サーニャの表情が強張る。