4 カマキリ男
◇
後始末を親友に押しつけて村から逃げ出したサーニャは、村の近くの草原にいた。
周囲には、温暖なこの地方特有の、カラフルな草花が生い茂る。見渡す限りの草原が、地平線の彼方まで、どこまでもどこまでも広がっていた。
そよ風が草原の草花たちを踊らせる。風に髪を遊ばれたサーニャが、大きく伸びをする。
「んー! 気持ちいい!」
機嫌よく草原を満喫していると、ふいに背後から気配を感じる。
「こんにちは、お嬢さん」
聞き覚えの無い声。何事かと振り返ると。
「な……」
声の主を見た瞬間、サーニャは驚きのあまり身動きが取れなくなった。
岩のように巨大な、カマキリの怪物が目の前にいる。その全身は草原のような緑色。両腕の先端は、人間の首すらも刈り取れそうな、巨大なカマの形状をしている。その鋭利な先端が、陽の光を反射させて不気味な輝きを放つ。そして節状の二本の巨大な足で、しっかりと地面を捉えていた。
カマキリの怪物は、ゆったりとした口調で。
「私の名前はカマキリ男。カマキリ族のエリートです」
聞いたわけでもないのに、勝手に自己紹介してくる。
「この先に村があるはずなのですが、ご存じですか?」
怪物からの、とうとつな質問。サーニャは、本能的に不穏な気配を感じたものの、それを悟らせないように冷静を装う。
「村? ルラ村のこと?」
「そうそう。そのなんとか村ですよ。これからお邪魔しようかと思いましてね」
怪物の口調は、いたって穏やか。一見すると二人のやりとりは、普通の会話でしかない。しかしカマキリ男から発せられる、そこはかとない邪悪さを感じ取とったサーニャは、警戒を強める。
「なにもないわよ。あんな小さな村」
「なにもない? それはおかしいですね」
カマキリ男が首をかしげる。首の角度が、人間ではありえないくらいに深く、見ているだけで気味が悪い。
何か気に入らないことでもあったのか、怪物は不満そうだ。しかし勝手に機嫌を損ねられても、サーニャには意味が分からない。辺りが不穏な空気に包まれる。サーニャは、一層警戒を強めた。
巨大なカマキリは、呆れたようにやれやれと首を振ると。
「いるじゃないですか。邪魔な人間どもが」
「……なんですって?」
「すべての草原はカマキリ専用! そんなことは世界の常識です! 神聖なる草原を荒らす不届き者には消えてもらいます。さあ、そこを通してください」
(な、なに意味わかんないこと言ってんのよ、このカマキリ……)
カマキリ男のメチャクチャな主張に、サーニャは思考が追いつかず、草原のど真ん中で呆然と立ち尽くす。
「ん? もしかして、あなたもあの村の住人なのですか?」
「……だとしたらどうする気?」
事実、サーニャはルラ村に住んでいる。少女は、村を襲おうとする危険な存在と、不運にも対峙してしまったのだ。サーニャがゴクリとつばを飲み込む。
「べつにどうもしません。今すぐ、この草原から出ていくなら、あなただけは特別に見逃してあげましょう。私はやさしいですからね」
「村の人たちは、どうするつもり?」
「皆殺しです。当たり前でしょう」
「バカ言わないで! そんな話が通るわけないでしょ!」
怒気をこめて吐き捨てると、カマキリ男を睨みつける。
カマキリ男は、「やれやれ」とため息をつくと、片腕を天にかかげる。そして血走った目で。
「すべての草原をカマキリ族の手にッ! それこそが全カマキリの願いッッッ!」
カマキリ男の腹の底からの叫びが、ビリビリと空気を震わせ、草原の彼方まで響き渡る。
言い終わるや否や、怪物は腕を振り下ろす。トガったカマが目の前に迫ってくる。
「な――」
怪物の不意打ち。あまりにも突然のことに、体が動かない。怪物は、そんなことなどお構いなしに、少女の首元めがけてカマを落下させる。巨体とは思えない素早さ。凶器は一瞬でサーニャの首元に迫る。
「くたばりなさい!」
勝利を確信したのか、怪物が笑みを浮かべる。
巨大な刃が首にかかる瞬間、サーニャは無意識のうちに地面を蹴っていた。少女が後方に飛び退くと同時、つい今しがたサーニャの首があった場所を、大鎌が疾走する。獲物をとらえ損ねて、虚空を切る。怪物の攻撃は、少女に、かすることすら出来なかった。かに見えたが――。からぶった鎌が突風を作り出す。突如として発生した風が、空中にいる無防備なサーニャに襲いかかる。
「きゃあああああ!」
予想だにしない強風にあおられて、少女が宙でバランスを崩す。吹き飛ばされた華奢な体が、猛スピードで怪物から遠ざかっていく。このままの速さで地面に激突すれば、大ダメージはまぬがれない。しかし、地面は容赦なく迫ってくる。
その瞬間、サーニャは空中で体をひねる。地面に激突する寸前、かろうじて体勢を立て直すことに成功する。細く白い両足が、地面を捉えた。間一髪、地面との激突を回避する。
着地した体が、地面を滑る。体が後方に持っていかれそうになる。一瞬、気を抜いただけで、吹き飛ばされそうだった。やっとのことで止まったときには、両者の間には大きな間合いができていた。
「ほほほ。ずいぶん身軽ですねえ」
「あっぶないわね! 当たったらどうすんのよ!」
はるか前方の怪物に怒りをぶつける。
「当たれば、あなたの首が飛ぶだけのこと」
ひどく冷徹な口調。
命を命とも思わない怪物の態度に、サーニャはゾッとする。
(……こいつ!)
うららかな昼下がりの草原で、サーニャとカマキリ男は距離を置いて睨み合う。
「普通の人間であれば今の一撃で真っ二つですよ」
感心しながらカマ先で少女を指すと。
「あなた、ただの小娘ではありませんね?」
少女の身のこなしが常人離れしていることに疑問を持ったのか、カマキリ男は目元に警戒を宿す。
サーニャは、乱れた長髪をファサっとかき上げて整えると。
「……ふっ、少しは見る目があるようね」
自信満々に口の端を持ち上げると、少女はカマキリ男にビシッと指を突きつけ。
「あたしは、天才魔法使いサーニャ様よ!」
「ほーう。魔法ですか……」
カマキリ男は身を守るように体の前で両カマをクロスさせる。
「この間合いは、魔法使いの間合い。念のため防御するとしましょう」
「あら、見た目に似合わず慎重ね。――でも!」
サーニャはおもむろに右手を突き出す。すると手の平全体が光で包まれていく。ほどなくして、少女の手に、手の平サイズの火の球が現れる。
「あたしの魔法は威力バツグン! 防御したって無駄よ! くらいなさい! ファイアーボール!」
炎の球が飛び出す。
一直線に飛ぶ魔法攻撃を前にして、カマキリ男が身を固くする。
空中を猛烈なスピードで爆進する火球は、一瞬のうちに標的の目前に迫ると、ガードの上から直撃した。すさまじい圧力でガードを押し込み、激しく火花を散らす。
「やった!」
魔法が敵対者を完璧に捉えたことを確認すると、サーニャはグッと両手を握りこみ、喜びをあらわにする。
「あたしの魔法は最強よ! かわさなかったのが運の尽きね!」
勝利を確信して腰に手を当てると、自信満々に高みの見物。すると……。
カマキリ男の両目が不気味に輝く。同時、巨大な二本のカマが、目の前の火球を一瞬にしてクロスに切り裂く。
炎の表面に切れ目が入る。直後、火球が急激に膨らみ、盛大に弾け飛んだ。高威力なサーニャの魔法が、いとも簡単に破壊されたのだ。
「えええっ!? どうなってんの!?」
自慢の魔法を簡単にしのがれ、驚きを隠せない。
「うん、ゴミ! 警戒して損しました」
涼しい顔の怪物が、キッパリと言い切る。緑のボディには傷ひとつ付いていない。それどころか、魔法を直接受け止めたはずのカマにも、ヤケドの跡すらなかった。