落語声劇「もう半分(五勺酒)」
落語声劇「もう半分(五勺酒)」
台本化:霧夜シオン@吟醸亭喃咄
所要時間:約35分
必要演者数:最低3名
(0:0:3)
(2:1:0)
※当台本は落語を声劇台本として書き起こしたものです。
よって性別は全て不問とさせていただきます。
(創作落語や合作などの落語声劇台本はその限りではありません。)
※当台本は元となった落語を声劇として成立させるために大筋は元の作品
に沿っていますが、セリフの追加及び改変が随所にあります。
それでも良い方は演じてみていただければ幸いです。
●登場人物
亭主:永代橋の脇で注ぎ酒屋を営んでいる。
将来の夢はもっと店を大きくすること。
妻:亭主の妻。
なかなかな性格をしている。
爺さんの置き忘れて行った百両に目がくらんで悪心を起こし、
猫糞を決め込む。
老人:野菜の棒手振りをしている爺さん。
過去に酒で失敗しているらしいが…。
乳母:慶安(今でいう職業斡旋所)から派遣されてきた乳母。
赤子:亭主と妻の間に生まれた子だが…。
老人と兼ね役。
語り:雰囲気を大事に。
●配役例
亭主・語り:
妻・娘・乳母:
老人・赤子:
※枕は誰かが適宜兼ねてください。
枕:皆さんはお酒は好きでしょうか。
嫌いな方にも様々な理由がございましょうが、好きな人間にとっては
「酒は百薬の長」と言われるようにたまらないものです。
江戸の昔に酒と言えば日本酒か焼酎くらいなものというのもありまし
たが、当時の酒の年間消費量は樽数にして最大で77万5千樽にも
達したそうです。
また醸造技術が今ほどではないため、アルコール度数が4~5度と
ビール程度しかなく、浴びるように飲むという表現がぴったりでした
。一人当たり年間約54リットルは飲んでいたというから驚きですな
。
もし現代に当時の人たちがタイムスリップかなんかしてきちゃったら
、そのアルコール度数の余りの強さに目を白黒させること請け合いで
す。顔はすぐに赤くなると思いますが。
さて、江戸当時の酒の販売形態と言うものは、醸造元で作られた酒は
まず樽に入れられて京や大阪から船旅でもって江戸にやってきます。
この時一部の酒はそのまま上方へ戻されるんだそうです。そうすると
波に揺られて味がまろやかになるんだとか。またこの時、富士山を
二度見て帰ることから「富士見酒」と呼ばれます。
こほん、話がそれましたな。で、江戸に着いた酒は各酒屋に届けられ
、各々の酒屋が独自に加水したりブレンドしたりして、基本的には
量り売りで販売されてました。中には店の名前が入った貸し樽や
通い徳利が用いられるケースや、簡単な食事と酒を出す煮売茶屋、
注ぎ酒屋、それが進んで煮売酒屋てのが出てきまして、今の居酒屋の
原型がオギャアと生まれたんでございますな。
江戸中期までは熱燗というものは無く、地炉利という金属でできた
長い容れ物で湯煎した酒を直接お猪口に注いで飲む燗酒が一般的で
、燗徳利が発明されたのが1830年ころ、普及したのが安政の時代
で幕末も近い1854年ころ…こほん、また話がそれた。
いまは亡き、某師匠みたいに知ってることは全部言っちゃうんでね。
語り:永代橋の脇に、ある注ぎ酒屋がありました。
触れ声と共に売り歩く、棒手振りの商人達がよく利用してましたが
、今日はどういうわけか客がほとんど来ない。
妻:お前さん、今日はやけに冷えるね。
亭主:ああ、客も入らねえし、今日は商売あがったりだ…あ。
おい見ろよ、寒いはずだ。
空から白いものがちらちらしてきたよ。
昼間っから寒すぎたもんな。
こりゃあもう客は来ねえぞ。
妻:そうだねえ、棒手振りの八百屋さんたちもここに寄らないで
どんどん帰って行っちまってるよ。
世間が静かになってるね。
こういう時はさっさと店じまいするに限るよ。
亭主:ああ、店の方は俺がやっとくよ。
お前は体を冷やさないようにして、奥へ入ってな。
妻:そうかい?
すまないね、お前さん。
亭主:いいからいいから、気にしねえで奥へ入ってろ。
老人:あの…ごめんください。
今日はもう、駄目でしょうか…?
亭主:お?おぅとっつぁん、いらっしゃい。
今日は全然客が来ねえから、いま店じまいしようかと思ってたとこ
なんだ。いや、かまわねえよ、そこへ掛けてくんな。
老人:あぁ…どうも、ありがとう存じます。
寒うございますなあ。
雪が降ってきました。
亭主:まったくだよ。
こう寒くっちゃしょうがねえ。
老人:あの、それで…すいませんが、いつものをお願いできますか?
亭主:あぁ、いつものね。
【二拍・樽から酒を桝に注いでいる】
あいよ、お待ちどう。
老人:あぁ、ありがとうございます。
冷えには酒が一番ですな…。
【少しずつゆっくり飲んでいる】
っはぁぁぁ……。
美味いですなぁ…。
この時だけは、ああ生きてるんだなぁと、そう思います。
世の中に極楽があるとすれば、酒を呑んでる時だけですなぁ…。
亭主:ははは、とっつぁんはほんとに酒が好きだねえ。
老人:【少しずつゆっくり飲んでいる】
あぁ…あとからあとから入ってくる…。
【飲み終わる】
はぁぁ……あの、すいません…もう半分、ください。
亭主:あぁ半分かい?
いいよ。
【二拍・樽から酒を桝に注いでいる】
あいよ、お待ち。
老人:ありがとうございます。
【少しずつゆっくり飲んでいる】
やっとひと心地、ついてきました…。
亭主:おぅとっつぁん。
これァ俺が酒の肴につまんでる、蕗を煮たやつだ。
よかったら食わねえかい?
老人:あぁ、蕗でございますか。
ありがとうございます…んむ。
【ゆっくり食べている】
美味いですなぁ…。
八百屋にとって、蕗をこういう具合にうまく煮てもらえますと、
嬉しいもんでございますなあ…。
【少しずつゆっくり飲んでいる】
あぁ、美味い…たまんないですな。
…すいませんが、もう半分ください…。
亭主:ぉ?おういいよ。
いや、こっちは商売だから構わねえんだけどな。
【二拍・樽から酒を桝に注いでいる】
あいよ、お待ち。
老人:いやぁ、すいませんですなぁ…。
【少しずつゆっくり飲んでいる】
あぁ~……。
寒くて体の芯から冷たかったのが、酒のおかげでだんだん
あったまって来ました…。
酒ってのは誰が考えたもんですかねえ…
偉い人がいるもんですねえ。
あたしは世の中で誰が一番偉いかって聞かれたら、
酒を考えた人だって言いますねぇ…。
【少しずつゆっくり飲んでいる】
はぁぁぁ、美味いなぁ…。
…。
…ぁー……。
亭主:もう半分かい?
老人:ぁ、ぁはは…すいません…。
亭主:いいよいいよ、遠慮するこたぁねえ。
【二拍・樽から酒を桝に注いでいる】
あいよ。
老人:ぁぁ、ありがとうございます…。
亭主:しかしね、いっぺん聞こうと思ってたんだけどよ、
とっつぁん、あんたいつも最初は一合頼むけど、
あとはずーっともう半分もう半分って五勺しか頼まないだろ。
ちいと面倒な感じもするから、どうせなら一杯ずつ頼んだら
どうだい?
今じゃあ俺の中で、五勺酒のとっつぁんって呼んでたりするんだ。
老人:ははは…五勺酒のとっつぁんとはうまく付けましたなぁ…。
いやぁ、親方の前なんですけどね、
この、半分てのは注ぎにくいもんなんですよ…へへ…。
どうしても余計に注いじゃうもんでしてね。
それが嬉しいもんで…。
亭主:はぁ…まぁ、確かにそうだな。
半分って言われたってどのくらいか分からねえから、
どうしたって余計に注いじまうな。
いやこりゃ、とっつぁん考えたねえ…!
これずーっと呑むってぇと、ずいぶん違うよ?
老人:【酔いがだんだん回ってきている】
えへへ…どうも、相すいませんでございます…。
【少しずつゆっくり飲んでいる】
はぁぁ…うまい…。
ぁ、いや、もうこれで帰りますから…。
お代、ここに置きますね…あの、おつりを……。
亭主:あぁ、ちょいと待ってな。
【二拍】
はいよ、おつりだよ。
老人:……。
亭主:?とっつぁん、どうしたんだい?
老人:ぁ、いえ…その…ですね。
このおつりに、これを足しまして……
もう半分だけ、いただけないでしょうか…?
亭主:お、おぉいいよ。
老人:ぁぁすみません、決してもう長居はしませんで…。
亭主:ははは、はい、お待ち。
老人:あぁ、ありがとうございます。
頂戴いたします。
【少しずつゆっくり飲んでいる。】
あぁ、極楽でございました…。
じゃ、旦那…いや親方…はは、ちと、酔いすぎました…。
亭主:とっつぁん、大丈夫かい?
老人:不思議なもんでございますなぁ…
いつもと同じくらいしか呑んでないはずなんですが…。
じゃ、お休みなさい。
亭主:おぉ気ぃつけな、足元悪いよ。
お休み!
老人:えぇ、どうも、ごちそうさまでした…。
妻:…いつも来てくれるのはいいけど、
なんだかおかしな爺さんだね。
亭主:いや、驚いたなおっかあ。
俺ァこの商売をずいぶん長ぇことやってるけど、
もう半分もう半分って、半分ずつ呑んだ客は初めてだよ。
いや、商売だからよ、半分だってなんだって売らねえことはねえけ
ど、半分ずつ呑むよりは一杯ずつ吞んだ方がいい気がするけどなぁ
。
妻:まあ、そこは人それぞれってやつじゃないかい?
あたしは好きじゃないけどね。
あんな所帯やつれしててさ、鼻が高くって頬骨は出てて、
目の周りの肉が落ちてる上に歯は乱杭歯、
頭の毛は白いしさ。
亭主:おいおい、何もそんなになりを貶さなくたっていいだろ。
年も六十くらいだ、頭の毛が白いのは当たり前じゃねえか。
まぁしかし、変わった爺さんもあるもんだ。
さて、これ以上は客も来ねえだろうし、看板にしちまうか。
妻:そうだね。
お前さん、暖簾を頼むよ。
亭主:おう。
…ん?何だこりゃ。
いやに汚ねえ風呂敷包があるじゃねえか。
妻:確か、あの爺さんが座ってたとこじゃないかい?
亭主:ああ、確かにそうだよ。
ははあ、さては忘れ物だな。馬鹿だなあ。
あと追いかけて渡してやらねえと…よっ…!?お、おっ!?
ず、ずいぶん重てえな…ずしっと来るぞ。
妻:いったい何が入ってるんだろうね?
お前さん、ちょいと中をあらためて見たらどうだい?
亭主:ああ、そうだな。
どれ……ッッ!?
【声を落として】
おっ、おっかぁ、おっかぁ!
てっ、てぇへんだこらぁ…!
妻:ど、どうしたんだい、そんなに慌てて。
亭主:【声を落として】
こっ、こっ、これ見ろ!
切餅が…四つ、入ってやがる…!!
妻:【声を落として】
えッ!!?
き、切餅一つで二十五両だろ…?
それが四つって…ひ、百両じゃないかい…!?
亭主:あ、あぁそうだ、百両だ…百両入ってやがる…!
あの爺さん、なんでまたこんな大枚を…?
い、いやそんな事よりいま、爺さんあの橋渡ってったな。
急がねえと、渡りきっちまったらどっち行ったか
分かんなくなっちまわぁな。
とにかくあと追っかけてーー
妻:【↑の語尾に喰い気味に】
ちょっ、ちょちょちょっ、ちょいと、ちょいとお待ちよ、お前さん。
亭主:っな、なんだよ。
袖を引っ張っちゃいけねえ。
妻:いいよ、追っかけなくたって。
亭主:なんでだよ。
あの爺さんがここに確かに忘れたって事を覚えてりゃいいよ?
覚えてなかったら可哀想じゃねえか。
妻:いいんだよ、覚えてたって覚えてなくたって。
お前さん、普段からなんて言ってたんだい?
亭主:何がだよ。
妻:何がじゃないよ。
いつも言ってただろ。
いくら繁盛してたって、こんなしけた店でいつまでもくすぶってんの
は嫌だって。
いずれはもっと大きな、四間半の間口でもって、
酒樽をたくさん並べたような、そういういい居酒屋を
やってみたいって、いつも言ってたじゃないか。
亭主:っそりゃあ…言ってたよ。
言ってたけど、こちとらには運が向いてくれねえんだから
しょうがねえじゃねえか。
妻:運なら向いてきたじゃないか。
今そこに、目の前に転がっているだろ。
亭主:なに、犬の糞があったか?
妻:バカ、なに言ってんだい!
そうじゃないよ。
その百両の金だよ。
あたしだっていつまでも注ぎ酒屋なんかやってるのは嫌だよ。
この百両があれば、良い土地買って、立派な店が建てられるじゃない
か。
亭主:お…おいおい、変な事を考えさせんなよ。
あの爺さんが百両の金を持ってるってのは、
きっとわけがあるんだよ。
だから届けてやらなきゃよ。
妻:だけどさ、…無かった、って、知らない、って言えば、
それですむじゃないか。
亭主:ちょっと待てよおい…ネコババしようってのか?
お前そりゃひでえやな、ええ?
どっさり金を持ってるお大尽だったら、百両くらい無くなったって
どうってこたぁねえかもしれねえよ?
だけどお前、あの爺さんがこんな大枚持ってるってことはよ、
きっと何かわけがあるに違ぇねえ。
かわいそうじゃねえか。
俺ァちょいとひとっ走りあとを追っかけるからよ。
妻:だから、お待ちって!
あの爺さんがかわいそうかわいそうって言うけどさ、
お前さんだってかわいそうなんだよ。
その金子をこっちに頂戴したからってさ、
世の中のかわいそうが増えるわけでも減るわけでもないんだよ。
こっちのかわいそうが、向こうへ移るってだけの事じゃないか。
ねえいいからさ、これを元手に太く短く生きてーー
亭主:【↑の語尾に喰い気味に】
バカなこと言っちゃいけねえ!
なんてこと言うんだお前は。
十両盗めば首が飛ぶってこのご時世に百両って、
とんでもねえことだぞ!
妻:いいから、いいからこっちへお寄越しよ!
亭主:おいっ、どこへ持ってこうってんだ!
妻:押し入れに入れとくんだよ!
とにかく、あたしに任せといて。
老人:あ、あの…!
こちらに、汚い風呂敷包みがございませんでしたでしょうか…!?
妻:あらまぁ、さっきのお爺さんじゃないか。
どうなすったんです?
老人:え、えぇ、こちらに風呂敷包みを忘れまして…。
妻:風呂敷包み?
いぃえ、今ここを片付けてたんですけど、
そういうものはありませんでしたよ。
老人:いえ、いえそんなわけはないんです。
無いはずは無いんです。
確かにここへ置き忘れていったんです。
いえちゃんと覚えてるんですよ。
お願いでございます。
むさい風呂敷でございますから、もしゴミか何かと間違えて
お捨てになったのでしたら、わたしが拾って参りますから。
どちらにお捨てになりましたか、
どちらにお捨てになりましたかぁぁ教えてくださいまし…!
ぁああれが無いと困るんです、
困るんです…!!
妻:困るんですって言われたってねぇ…
お前さん、知らないよねそんなもの。
亭主:【動揺して口ごもってる】
お?ぉおぉあぁあぁの、ふ、風呂敷包みね、風呂敷ーー
妻:【↑の語尾に喰い気味に】
ね、ほら知らないって、そう言ってるでしょ。
知らないんだから、ありませんよ。
老人:【半泣きになりつつ】
いや、あれないと困るんでございます。
お願いでございますから、もしどこかにあったらお出し願います。
お願いでございますから渡して下さいまし…!
あの風呂敷包みには、百両という金子が入ってるんでございます。
こんな汚いなりをした爺が、百両なんという金を持っているわけな
いとお思いでございましょう。
ごもっともでございますが、これにはいろいろ深いわけがございま
してなぁ…。
何をお隠しいたしましょう、わたしは以前、深川の八幡前で
かなり大きな八百屋渡世をしておりました。
奉公人も多く使っておりまして、それはうまくやっていたのでござ
います。
それが若い頃からの酒癖の悪さ…後引き上戸と申しますか…。
そのせいで人様に色々迷惑を掛けまして、
お得意様が一つ減り、二つ減り…
とうとう商売をいびつにしてしまいました。
悪い事は続くもので、女房が奇病にかかりまして…
薬やら治療に金をつぎ込んでも治らずに、そのままあの世に逝って
しまいました…。
残された娘と二人、今まで細々と生きて来ましたが、
この年になると棒手振り稼業も体に堪え、雨雪の日は寝込む日が
増えました…。
娘がそれを見かねて、
娘:おとっつぁん、六十の坂を目の前にして棒手振り稼業じゃ、
体が続かない。
私が身を売ってお金を作るから、それでもう一度お店を始めて、
少しでも楽をして、ね。
老人:【半泣きになりつつ】
そう言うのでございます。
自分から吉原に身を売って金をこしらえてくれたのです。
親に似ぬ子は鬼っ子などと申しますが、
親に似ず器量良く生まれましたために百両と言う、
思いがけない金子になりました。
それを今日受け取って、その別れ際に娘に言われたのです。
娘:おとっつあん、おとっつあんの悪いのは酒なんだから、
どうか商売の目鼻がつくまでは、
酒をひとったらし、ひとったらしでも呑まないでくださいね…。
老人:【半分泣きながら】
そう固く止められたのでございます。
わかった、誰が呑むものか、金輪際、酒というものは口にしないと
、そう約束して金を受け取って帰る道すがら、
こちらの前まで通りかかりました。
そしたら、あまりにいい匂いがして参りましたために、
半分ぐらいならといただいたのが間違いのもとで、
もう半分もう半分と吞み続けました。
懐の金が冷たいのでこれを脇に置いて、
もう半分もう半分と重ねておりますうちに、
酔いに任せてそのまま家へ帰って懐を探って、
しまった、あの店に忘れてきたと思いだし、
酔いも醒めてすぐ引き返してきたのでございます。
あの金は娘を売った金なんでございます。
お願いでございます、この通りでございますから、
どうか、どうかあれをこちらに出して下さいまし…!
返して下さいまし…!
妻:まぁなんてこと言うんでしょうねこのお爺さんは。
あのね、どんなわけがあるかもしれないけど、知らないものは知らな
いんだよ。
今度出てきたら取っときますから、ね。
そりゃ気の毒だったけれどもさ。
他のとこに忘れたりしたんじゃないかい?
老人:【涙声でかきくどく】
いぃえ、他じゃないんです。
ここしか寄ってないんでございます。
ちゃんと覚えてるんです。ほら、ここの畳の目のほつれた、ここ、
この模様のところにちゃんと置いたんでございます。
お願いでございます、娘を売ったお金なんでございます。
どうか、どうか返してくださいましぃぃ…!!
妻:いい加減にしてくれないかね、この人は!
返して下さい返して下さいって、
それじゃまるで、こっちがネコババしたみたいじゃないか!
冗談じゃないよ!
あぁそうか、分かったよ、お前さんあれだろ?
そういう事をほうぼうへ言っちゃあ難癖をつけて、
幾らかせしめようってんだね!強請り集りのたぐいなんだろ!
老人:【泣きながら】
そ、そんな、強請り集りだなんて…そういう男じゃありません…!
もともと正直八百屋で通っているんです…!
この通りでございます、どうか、返してくださいぃぃ…!
妻:冗談じゃないよ、まだそんな事言ってーーちょっとちょっと、
何うろうろしてんだい!ちょいとお前さん!
ぐずぐずしてないで、この爺さんをさっさと表へ叩きだしといでよ!
亭主:ぁ、ああ分かったよ…。
まぁまぁとっつぁん、無えってそう言ってるんだし、
しょうがねえよ、な?
【※老人が後ろで「返してください」とひたすら言っている】
ここは諦めてな、んなこと言わねえで…ッいいから、
こっち来ねえな!
ッ!!【店の外へ突き飛ばす】
老人:ぁあッ!?
【二拍】
う、うぅ…!はぁぁ、血、血だぁ……酷い事をするじゃないか…!
なにも突き飛ばすことは無いじゃないか…!
【二拍】
…あの酒屋の夫婦も、百両と言う金に目がくらんだのか…。
くらむなと言う方が無理かもしれないが、
これほどわけを話しているんだから、分かってくれてもよさそうな
ものを…!
…あぁ…もうだめだ…娘に会わせる顔がない…。
もう、この世では生きていかれない…。
語り:絶望しきった老人は、店脇の橋をとぼとぼとぼとぼと、
中ほどまでやってきます。
橋の欄干に手を掛けると、暗い川を見つめながらつぶやきました。
老人:娘や、堪忍してくれ…、せっかくお前がこしらえてくれた金も、
水の泡になってしまった…。
これもみんな、身から出た錆だ…、お前とあれほど約束したのに、
酒の誘惑に負けて吞んでしまったおとっつあんが悪かった…。
娘や、お前は酒を呑まない男と一緒になって、体を壊さないように
して、長生きしておくれよ…。
草葉の陰から、祈ってるからなぁ…。
それにしても口惜しいのは、あの酒屋の夫婦…!
人に恨みがあるものか無いものか……よく覚えておけよ……ッ!!
【水に落ちるSEあれば】
語り:ぎょろりと酒屋の方を振り返って睨むと、老人はそのまま暗い川へ
ざんぶと身を投げてしまいました。
あくる日になり、これこれこういう爺さんが土左衛門で上がった、
という話が酒屋夫婦の耳に入ります。
妻:お前さん聞いたかい。
あの棒手振りの爺さん、身投げしたんだってさ。
亭主:あぁ、さっき聞いたよ…。
むごい事しちまったなぁ…。
妻:ちょいと!お前さんが落ち込んだってあの爺さんが生き返るわけじゃ
ないんだよ!
そんな事より、あるもんがあるんだからさ、
早いところいい場所探しといでよ!
語り:急き立てられるままにいい物件求めて探し回ってみると、
運がいいってのはあるもので、今の店からそう離れてない所に
確かに四間半間口の十分な広さと大きさのある、居抜きでそのまま
使えるような手頃の建物が見つかります。
こんな金を元手に始めた商売、さぞ上手くいかないだろうと
思いきや、移転して奉公人を雇って居酒屋を始めてみると、
これがまた面白いように流行る。今じゃもう店は奉公人任せで、
夫婦は湯治に行ったり、芝居を見に行ったり、物見遊山に行ったり
と、なかなかいい暮らしができるようになりました。
妻:お前さん、お前さん!
亭主:な、なんだ、そんなに慌てて。
妻:…できたんだよ!
亭主:できた?
!赤んぼか!?…っほ、ほんとか!?
俺たちは幸せ者だなぁ…!
妻:ほんとだよ!
ああ、ありがたいねえ…!
語り:運のいい事は重なるもので、待望の子供を身ごもった夫婦。
やがて十月十日の日が満ちてついにおぎゃあと生まれたのが、
玉のような男の子…とは似ても似つかない、顔と言わず手と言わず
、生まれたばかりなのにしわくちゃで痩せこけて、頭には白い毛が
こびりつき、おまけにあの死んだ爺さんそっくりの乱杭歯が生えて
いる、奇怪な赤ん坊でした。
妻:お前さん、あたしの坊やは?
顔を見せておくれよ。
亭主:【つぶやく】
こ、こいつはえらい事になった…け、けど見せないわけには…。
妻:早く、見せとくれよ。
亭主:ぅわ、わかった…。
妻:!!!!?ぎゃあああああああああーーーーーッッッ!!!
亭主:!?ああっ、お前、おまえッッ!?
妻:あ…ぁ…ッ。
亭主:そ、そんな…?
う、ううっ…!
【少しの間泣く】
こ、こんな事になるなら、あの時かかあを振り切ってでも爺さんに
、百両の金を返してやれば良かった…。
…せっかく天から授かった子だ。
形は良くないけれども、やはり同じ赤ん坊だ。
これを可愛がって育ててやれば、きっとあの爺さんの供養になるだ
ろう…。
赤んぼ:おぎゃあ、おぎゃあ…。
語り:そう心に決めた酒屋の亭主、妻の弔いを済ますかたわら、慶安、
今の職業斡旋所へ行きまして、乳母を雇って育てる事にしました。
ところがどの乳母も三日と続かない。
短いと一晩でやめてしまう。
何人目かになる乳母も二日目にして音を上げて亭主に願い出ます。
乳母:おねげえでごぜえますだ。
おらにはとても坊ちゃんの場合は務まりませねぇで、
どうか、お暇をいただきてえんでごぜえます。
亭主:困ったね…お前さんばかりじゃないんだよ。
もう来る婆や来る婆やみんな逃げ出すように辞めていっちまう。
聞いても話してくれないんだ。
わけが分からない事にはね、こっちも困ってしまうんだ。
こんなに入れ替わり立ち替わりされたんじゃ、子供が育たないよ。
どういうことか、聞かせてくれないかね。
乳母:それは…おらの口からは、とても恐ろしくて、
わけは申し上げられねえです。
けんど、それほど旦那様がわけをお知りになられてえのでしたら、
一晩、隣の部屋でご覧になられたらええです。
亭主:む、むぅ…だが、今晩だけは頼むよ。
給金は倍だすから。
乳母:…わかりましただ。
丑三つ時ごろに、お気をつけくだせえ…。
語り:そしてその晩、亭主は赤ん坊と乳母の眠る隣の部屋で、
六尺棒を持ってその時が来るのを待ち受けます。
やがて草木も眠る丑三つ時、屋の棟も三寸下がり、
水の流れも止まる刻限、遠くで鐘をつく音がする。
乳母:ん…うん……。
亭主:【声を落として】
そろそろ時間だが……?
うっ、あ、あれは…!?
ま、まだ首も座ってないのに、布団の上にぴたっと座った…!?
しかも乳母の鼻の上に手をかざして、寝息をうかがってる…!
ぁっ、な、なんだ…行灯の側へ這っていって…っう、嘘だろ…?
あ、行灯の油さしから、湯飲み茶わんになみなみと油を…?
っう、美味そうに飲みだした…!!
ッッッ!
【がらりとふすまを開け放つSEあれば】
爺ぃ、迷ったかァッッ!!
赤子:もう半分、ください。
終劇
参考にした落語口演の噺家演者様等(敬称略)
金原亭馬生(十代目)
柳家小三治(十代目)
※用語解説
永代橋:隅田川に架かる橋で中央区新川と江東区永代を結ぶ橋。
棒手振り:天秤棒の前後に荷物をさげて売り歩く行商人の総称。
振り売りとも言われた。
一合:現在の数字で約180ml。
五勺:一合の半分なので、現在の数字で約90ml。
ちなみに劇中で用いた「五勺酒」はこの噺「もう半分」の別名。
切餅:一分銀が100枚、小判にして25両相当を重ね紙で包んだものの
俗称。のし餅を四角に切った形に似ている事から両替商のあいだで
使われていた。時代劇では見栄えをよくするためなのか分かりやす
くするためなのかは知らないが、小判25枚が包まれていることが
多い。現在の価格に直すと一分銀で約25000円、一両は四分で
あるため、一両は約80000円、それが百両分となると…、
約800万円なーりー。(その時代時代で鋳造されたものによって
価値は変動します。小判の金の含有率が、56~86%と
大きく異なるため。)
四間半の間口:今の長さでだいたい819cm。
畳の長い方四枚分+短い方一枚分。
間口とは家屋などの正面の幅。
「四間半 」
後引き上戸:呑み始めると際限なく酒を欲しがる癖のある人。
土左衛門:水死体の事。
六尺棒:約182㎝。そういう名前の落語の演目がある。
屋の棟も三寸下がり:草木でも眠る時間なので家屋も眠り、
三寸(9cm)ほど沈み込んでいるようだと形容したもの。
丑三つ時:今でいう、午前2時~2時半を指す。