第1話 依頼人
とある雑居ビルの三階に、『乙姫コーポレーション』という民間警備会社がある。
「だからぁ、祐司。お前は顔が怖いんだよ」
事務所内に響くのは、後輩を熱心に指導する白石護の声だった。護は黒髪の短髪で、背が高くガタイがいい。
「ただでさえ依頼人は不安な気持ちでここにやってくるんだから、笑顔で迎えないと。ほれ、圭吾を見てみ?」
護は隣に座って仕事をしている眼鏡をかけた男、朝比奈圭吾に視線を送った。
「祐司くん、ここへ来て3ヶ月ですが、仕事はもう慣れましたか?」
圭吾は爽やかな笑顔を祐司に向ける。確かに女性ならその笑顔に癒されるだろう。しかし祐司にとっては圭吾が何を企んでるかわからない、その眼鏡の奥の瞳が恐ろしく見えて仕方なかった。
「まあ……なんとか」
圭吾の笑顔に威圧されながらも、村上祐司はそっけなく答える。
「何度も言いますが、ボディーガードはただ危険から依頼人を守るだけじゃないんです。お互いの信頼関係も必要です。だから依頼人を不安にさせないためにも、笑顔は基本なんですよ」
(信頼関係か……)
今まで人を避けて生きてきた自分に、信頼関係を築くことなんてできるんだろうか。
5年前、祐司は児童養護施設から出たあと、バイクの整備士見習いとして働きながらアパート暮らしをしていた。しかし2年後、とある事故がきっかけで乙姫コーポレーションの社長と出会う。そして3ヶ月前、ボディーガードとして働かないかと誘われたのだった。
「君には素質がある」と言われたが、自分には他人の命を守れるほどの力も頭脳もない。ただこんな命でも役に立つのなら……という投げやりな気持ちで誘いを受けた。
「もうすぐ女性の依頼人が来るから、その無愛想な顔、なんとかしろよ」
そう言って護は背伸びをすると、一服するために立ち上がった──と、その時。バタバタと外の階段を上がる音がしたかと思うと、中年の小太りの男が勢いよく事務所の中に入ってきた。
「乙姫はっ……乙姫はおるかぁ!」
突然の来訪者は、まるで誰かに追われているかのようにしきりに背後を気にする。
「失礼ですが、どなたですか? 社長なら出かけていますが……」
圭吾は冷静に応対する。
「わしはS会社を経営しとる根本や! すぐに乙姫を呼んでくれ!」
「わかりました。社長に連絡を取りますので、少々お待ちください」
圭吾は根本が乙姫と顔見知りだということを瞬時に察すると、祐司に根本を別室に案内するよう指示を出した。
「根本様、こちらへ」
ただならぬ雰囲気に動揺することなく、祐司は別室に根本を案内する。
ソファーに座り、大量の汗をかいて息をきらしている根本を残して、とりあえずお茶でも淹れようと部屋を出ようとすると、
「ま、待ってくれ! 一人にしないでくれ! あいつが……あいつがっ……!」
根本はひどく怯えながら、必死に祐司のスーツにしがみついてきた。
(あいつ……?)
「根本様、ご安心ください。社長が来るまで俺があなたをお守りしますよ」
するとタイミング良く部屋に入ってきた護に助けられた。根本はガタイのいい護を見るなり、今度は護のスーツにしがみつく。
護とアイコンタクトを取ると、祐司は給湯室に向かった。お茶を淹れながら、根本は一体誰に追われているのだろうと想像を膨らます。
護衛の相談の依頼は基本、事前予約ばかりだ。しかし根本のように突然来訪してくるパターンもある。
しかし大の男があんなに怯えるなんて、何か命を狙われるようなことでもしたのだろうか。それとも逆恨み的な……?
「祐司くんはそのお茶を出したら、東様のお迎えの準備に取りかかってくださいね」
社長と連絡を取り終えた圭吾が、お茶を運ぶ祐司に話しかけた。