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隅っこのひかる  作者: 三星尚太郎
9/10

我が子

 翌朝の爽やかな青空に、真っ白いわた雲がいくつも浮かんで、駅舎に涼しげな足跡を落として行く。


「懐かしいわね」


 駅の階段を降りた京子が、眩しげな顔で空を見上げた。わた雲を捕まえて編んだような白いワンピースと白い帽子。


 道路を挟んだ向こう側に、まだ新しい校舎が見えた。陽と京子が通っていた小学校だ。何年か前に建て替えられたと聞いていた。駅舎から、道路を跨ぐようにして正門前まで架けられていた歩道橋は撤去され、横断歩道が作られていた。


 思い出深い歩道橋だった。下校時に何度もジャンケン遊びをしたし、雨の日、風の日、夏の暑い日、冬の寒い日、いつも歩道橋を歩いていた。


「たしか、私が勝ち越してたわよね」


 京子が勝ち誇った。確かにそうだった。京子はジャンケンが強かった。リベンジしたかったが、在りし日の思い出だけを残して、歩道橋はなくなってしまっていた。


 信号機の誘導音が鳴り、陽と京子は横断歩道を渡った。  


 正門も建て替えられていたが、塀沿いをぐるりと回って通用門に行くと、当時のままの鉄の門扉が所在なげに半開きとなっていた。そこから、校庭を眺めた。


 三年生くらいの体育の授業だろうか、サッカーをする児童達が走り回っている。授業中なので躊躇われたが、陽は思い切って、京子を誘って通用門を通った。


 鉄棒。雲梯。のぼり棒。砂場にジャングルジム。陽はジャングルジムの頂に登って、腰掛けた。京子もワンピースの裾を抑えながら登ってきて、陽の隣に腰掛けた。


 雲が近くなった気がした。ほんの3メートルほどの頂なのに、まるで峻峰にいるような下界との隔たりを感じた。二人だけの世界。小学生だった頃の思い出を話し合った。


 何人かの児童が、ジャングルジムの部外者二人に気づいたようだ。ちらちらと、陽と京子を見る児童がいる。


「先生に叱られる前にいきましょうか」


 京子に促されて、陽はジャングルジムを降りた。


 小学校を出て、道路沿いに歩いた。駅近辺には新しい建物が多かったが、歩くうちに、道幅は狭くなり、町並みは古くなった。


 駄菓子屋があった平屋の前で、陽は立ち止まった。平屋は風雪を耐えてまだ建っていたが、駄菓子屋はずいぶん前に閉めてしまったようだ。


「お京は、ここの油菓子が好きだったな」


「あなたは、安いプラモデルばかり探していたわね」


 引き戸のガラス越しに、思い出が灯る店内を見渡した。


「駄菓子屋のおばあちゃん。もう亡くなっちゃったのかな」


 京子が言った。


「よく叱られたな」


「店の中で走り回るからよ」


「誰かが一緒に走り回ってたと思うけど」


「ほら、見て」


 京子が指さした。うまくごまかしたつもりのようだ。


 二人は神社の境内に入った。こんもりと繁った木々が、涼しげな陰を落としている。秋祭り。いつも京子と待ち合わせた。


 神社の境内を抜けて、坂道を下っていく。海が見える。ここは、元々漁師町だった。寂れた漁港があって、その傍らに、申し訳程度の砂浜があった。波打ち際まで歩いた。


 波に揺れる日差しが、京子の白いワンピースにも跳ねる。綺麗な横顔だと思った。


 今日、京子を誘った理由を、そろそろ告げるべきだと思った。


 その時、ポケットにしまってあったスマートフォンが激しく震動した。陽のスマートフォンを揺らし得る唯一の人間が目の前にいるため、陽は迷惑メールか間違い電話に違いないと思った。しかし、得体の知れない不安があった。


 スマートフォンを取り出す。電話だ。覚えのない番号。無視して然るべきだったが、漠然とした不安が、スマートフォンを耳に当てさせた。


「水島陽さまのご携帯ですか」


 緊迫した女性の声。


「そうです」


「よかった。私、『若葉の森』の児童指導員をしております瀬戸と申します」


 どきりとした。『若葉の森』。あの子を預けている施設の名だ。


「緊急のことでしたので、調書にあった水島様の勤務先に電話して、連絡先を教えてもらったんです」


 そういえば、災害時の連絡網で、携帯番号を職場に報告していた。勤務先の所属はいくつか異動していたので、瀬戸指導員は順番に辿ってきたのだろう。


「歩くんが、大変なんです」


 瀬戸指導員の声は泣き出しそうだった。若い指導員のようだ。あの子を親身に支えてくれていることが、その声から感じられた。


 あの子が、重い心臓の病に冒されていた。発作が起き、意識を失って、病院に運び込まれたらしい。一刻を争う容体で、緊急手術を行なう必要がある。成功率は、祈りたくなるほど低い。


 病院の名前、場所を聞いて、陽は電話を切った。呆然とした。地面が消え失せてしまったような浮遊感を覚えた。前にも経験したことのある感覚だった。


「どうしたの」


 悪魔からの電話のように、陽は魂を失っているように見えた。陽は力ない声で、電話の内容を話した。感情のない言葉の羅列だった。


 京子も声を失った。しかし、すぐに陽の手を強く握った。痛いほど握りしめた。


「行きなさい、陽。歩くんのところへ」


 京子の強い眼差し。巡の姿が重なる。


 行こう。陽の眼差しにも強さが灯った。大切なものを、もう見失わない。


「ごめん」


 言い残して、陽は駆けだした。ひたすら駆けた。大きな道に出る。タクシーを見つけ、飛び乗る。


「駆けつけてどうする。会ってどうする。お前はあの子の何なのだ」


 何度も何度も影法師が囁いた。長い付き合いだが、もう容赦はしない。


「だまれ、二度とその口をきくな」


 タクシーの運転手が、ぎょっとして陽を見た。なんにせよ、病院へは急いだ方がいい。運転手はそう思ったようだ。


 病院の玄関。陽は万札を運転手に渡して、飛び出した。受付に飛びかかる。教えられたフロア。静まりかえっている。陽の息づかいだけ。壁に掛かった赤い灯。


 廊下に置かれたソファから、女性が立ち上がった。


「歩くんのお父様ですか」


 女性は瀬戸と名乗った。電話の女性だ。華奢な姿だが、母性を感じさせる。想像通り、まだ若い。


「すみません」


 陽は深く頭を下げた。何と言うべきか分からなかった。謝罪すべきことが多すぎた。


 促されて、陽はソファに座った。


「長い手術になるそうです」


 瀬戸指導員はそう言った。


「私も、待たせてもらってよろしいですか」


 陽は頷いた。待つ資格は彼女にこそある、と陽は思った。


 廊下の突き当たりの窓。そこから差し込む光が、弱くなり、陰を帯び、赤くなって、やがて消えた。瀬戸指導員が二度、紙コップのコーヒーを運んでくれた。


「勇気づけられていると思いますよ、お父さんが来てくれて」


 皮肉ではない。彼女は素直に、そう思ったのだろう。陽は、胸を抉られた思いがした。嗚咽をこらえた。両膝に両肘を置き、指を組んで額を載せる。祈るしかなかった。祈るほかは、逃げ出しそうになる自分をただ叱咤するのみだった。


 長い手術が終わり、執刀医が陽の前に立った。何を告げられたのか、よく覚えていない。手は尽くしたこと。側に付いてやってほしいこと。理解できたのは、それくらいだった。


 歩は小さな体だった。記憶の姿よりは成長しているが、それでも、何本ものチューブを繋がれるには、あまりに小さな姿だった。


 病室に運ばれた。陽は一人、歩の側に残った。瀬戸指導員も、さすがにこれ以上はお節介が過ぎると思ったようだ。


 薄いカーテン越しの月明かりが、歩にかけられたシーツを白々とさせた。静かに眠っている。あの時の巡の表情に似ている。


 歩の寝顔に、何度も謝った。発達障害を持ち、母を失い、施設で暮し、父に捨てられた。そして、重い病。このまま母の元へ逝った方が、あるいはこの子は幸せなのかもしれない。


 歩の手が、力なくシーツから垂れている。陽はそっとその手に触れた。シーツの中に戻してやろうと思ったからだ。温かかった。体中に沁みる温かさだった。


 歩の唇が動いたような気がした。錯覚だと思った。だが確かに動いている。微かだが歩は何かを話そうとしている。


 耳を寄せた。歩の細い息が、頬に触れた。


「…パパ…」


 確かに聞こえた。歩は、陽を呼んでいた。歩の中に、陽が残っていたのだ。


 熱いものが溢れた。溢れて止まらなくなった。陽は歩の小さな手を握りしめた。頬に擦りつけた。生きて欲しい。それだけを懸命に願った。


 肩を叩かれた。朝の日差しの中だった。眠ってしまっていた。


 もう一度肩を叩かれた。瀬戸指導員だ。彼女は微笑んでいた。周囲を見渡す。看護師と昨夜の執刀医。皆、微笑んでいる。皆、朝の日差しを受けている。


 歩が目を覚ましていた。ベッドで半身を起こしていた。手は、陽が握り締めたままだ。


 歩はぼんやりしていた。感情が、うまく沸かないのだろう。障害のせいだった。そんなことはどうでもよかった。


 陽は掴んでいた歩の手から肘を撫で、肩を撫で、頬を撫でた。十歳になっているはずの我が子だった。


 抱き締めた。歩の香りがした。たくさんの涙が出た。


「生まれてくれてありがとう。生きてくれてありがとう」


 言葉になっていなかったかもしれない。それでいいのだ。こんなにも強く抱き締めているのだから。必ず伝わるはずだ。


 朝の日差しが鮮やかすぎて、室内の誰も気づかなかった。出窓に仄かな光があって、そこに腰掛けた姿がにっこりと笑っていた。

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