情景
二日後の朝、陽は懐かしい場所に立っていた。同時に、忌まわしい場所でもある。二度と訪れるつもりのなかった場所。地図上から消してしまいたかった場所。
古い五階の建物。同じような佇まいの建物が全部で三棟。一番西の棟、一階、西端の部屋。ここが止まった時の、起点だった。
そこで、陽は暮らしていた。巡と、生まれたばかりの子の三人で。幸せな家庭になるはずだった。そして確かに幸せであったのだ。陽が、一つの困難に視界を塞がれ、妻と子を置き去りにして逃げ出すまでは。
何を望んでいたのだろう。陽は、その頃の自分の心の中を探してみる。仕事と趣味での自己実現。人並みの苦労。誰かが通ったような人生。自己満足だけの終焉。おそらくそんなところだ。それもいい。それが認められる社会であるし、立派な一つの道でもある。ただ、妻と子を捨てるほどのものではない。
妻子を捨てて、何が得られる。そして、何を得た。陽は自分に詰問する。世界の隅っこで、ただ止まった時の中を蠢く日々だ。
いつまで続く。いつまで続ける。いつ終えることができる。
陽が暮らしていた部屋の玄関扉が開いた。仕事に出る男性。見送る女性に抱かれた小さな姿。幼い手を一生懸命に振っている。
目を細めた。夏の日差しの下とはいえ、あまりに眩しい光景だ。その部屋で、数年前に若い母親が命を自ら終えた事実を、あの家族は知っているのだろうか。
知っているのは、もう自分だけなのかもしれない。時間は流れ、世の中は変わる。悲しみは喜びに、喜びは悲しみに移り変わる。
螺旋。世界は螺旋で出来ている。小さな螺旋。大きな螺旋。鋭い螺旋。緩やかな螺旋。
茫漠として何もない陽の居場所。そこもまた、果ての見えない、だだっ広く、動きの頗る緩やかな螺旋の一つなのだろうか。
陽は空を見た。日差しは強いが、どこか圭角のとれた終わりの夏だ。あの子が生まれたのも、こんな秋色が滲み始めた夏だった。
あの子を穏やかな夏の日に向けて抱き上げた。あの子は笑っていなかった。感情を、どこかに零して来たようだった。それでも笑っているように思えた。あの子の心が笑っていた。何より、陽自身が笑っていた。
あの時、確かに感じていた温もりと重み。陽は両手を見た。そこに温もりも重みも残ってはいない。何もない両手の上に、辛うじて面影だけは描くことが出来た。
今日は一日、忘れたかった土地で、振り返りたくなかった過去を訪ね歩くつもりだ。
仕事は休んだ。突然取った休みだった。例の上司はつまらなそうな顔をした。
「計画的に休みを取ってくれないと。それで部下に示しがつくの?」
上司自身はどんな示しをつけているつもりなのだろう。横柄。姑息。小心。虚勢。そんな言葉しか見当たらない。だが、憎もうとは思わない。憎むことによって、この俗物に縛られるのはまっぴらだった。
陽は公園へ続く道を歩いた。ようやく歩き始めたあの子と、何度も歩いた道だった。葉っぱを拾うのに一生懸命だった。難しそうに眉を寄せて、せっせと拾い集めていた。公園に辿り着かずに、家に戻ることもあった。
田圃に囲まれていた公園。田に水を張っている時は、公園は水に浮かんでいるようにも見えた。田の水に空が映っていた。
今は真新しい家に囲まれている。公園はあの頃よりもこじんまりしたような気がした。
初めて蝉を見せてやった木。今も青々とした枝葉で、涼しげな影を落としている。滑り台に、シーソー。ペンキは塗り替えているが、遊具はあの頃のままだ。
あの子は遊ばなかった。ベンチに座って、他の子が遊ぶのを不思議そうに見ていた。
同じベンチに陽は座った。なぜこの子は他の子と同じように遊具で遊ばないのだろう。あの頃、陽はそんなことを悩んでいた。
話さない子だった。市が実施している検診の時に、専門医や相談窓口を紹介されたこともあった。その度に、いつかこの子は普通の子供になるのだと頑なになった。ありのままのあの子を否定するように、自分の将来像に相応しくない可能性を黙殺した。
陽は、また歩き始めた。ベビー用品を売る店へ続く道だ。あの子をお腹に宿していたころの巡と、よく歩いた道だ。
右手に何かを感じた。何か温かいものに触れた感触があった。目の前に右手を上げてみる。何もない。だが、その温かさを覚えている。巡の手の平の温かさだ。巡と手を繋ぎ、この道を歩いたのだ。生まれくる子供のことを楽しげに話しながら。
どこかの家族が前を行く。父と母の手を両手に持って、小さな歩みを弾ませる子。陽光に照らされて、明るさの中で、大きな影二つと小さな影一つが並んで行く。
ベビー用品を売る店は、ホームセンターに変わっていた。前を歩いていた家族が店舗の中へ入っていく。別の女性客が出てくる。紙おむつの袋を提げている。ベビー用品も、引き続き取り扱っているのだろう。
幼稚園に続く道。子供達の声が騒がしくなってくる。園庭と園舎が見えてきた。
陽は園児が駆け回る園庭と、歌声が聞こえてくる園舎を見つめた。穏やかな陽光が降り注いでいる。母親に手を引かれた園児が、園舎の玄関に向かっている。その母子の姿に、巡とあの子の姿が重なった。
児童相談所に勧められ、巡があの子を施設に預けることに決めたとき、彼女はどれほどの無力を感じたことか。陽には、その時の巡の背中を想像することしかできない。なぜ、その時、巡の隣に立っていなかったのか。
陽は強く唇を噛んだ。滑り台の頂から、不思議そうに陽を見る園児と目が合った。
子供の瞳。深く澄んだ瞳。常識や損得の分厚く無粋な濾過を通すことなく、ありのままを写す瞳。あの子はその瞳で、何を見ていたのだろう。遠ざかる父の背中だろうか。
自分は何を見ていただろう。昔は、同じ瞳を持っていたはずだ。同じ瞳で、巡とあの子を見ていたなら。三人で歩く道を見ていたなら。あの瞳の頃に戻ることは、もう出来ないのだろうか。
「戻ってどうするの。もう全て終わってしまったのに」
影法師の奴だった。しばらく黙っていたのに、余計なところでしゃしゃりでてきた。
影法師を振り切ろうと、陽は駆け出した。巡と歩いた道。あの子を抱いて歩いた道。クリスマスのケーキを買って帰った道。あの子が始めての雪を踏んだ道。
全てを振り切りたかった。そのくせ、振り切れるはずがないことも知っていた。
「ふりほどくことはできないよ。ふりほどくつもりもないのでしょ」
声が聞こえた。影法師ではない。ひかるの声だ。今も見守ってくれているのだろうか。陽は辺りを見回した。側には、揺らめきながら立つ黒々とした影法師が並んでいるだけだった。
大きな道の歩道に立っていた。国道だ。あの子が、児童相談所の車に乗って遠ざかった道だ。巡がただ一人であの子を見送った道だ。