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隅っこのひかる  作者: 三星尚太郎
6/10

待っていた人たち

 翌日の朝、陽は母子家庭の母親から挨拶を受けた。引っ越すという。事情を尋ねようとは思わなかった。彼女に抱かれた幼子の幸せを願うのみだ。


 それから日数をそう置くことなく、母子家庭は引っ越した。父親が戻ってきたから、もう母子家庭ではない。あらためて挨拶に訪れた時、父親も一緒だった。母親に比べ、若干年配に感じた。


「どんな事情かは知らないけど、迎えにくるだけ彼はましだね」


 影法師は言う。全くだと、陽は思った。


 日曜の朝だったので、陽は新たに旅立つ家族を見送りがてら散歩に出た。夏は盛りになった。停まっている車から、高校野球のラジオ中継が聞こえてきた。


 小学校の校庭で児童が遊んでいる。眩しく見えるのは、朝から張り切る太陽のせいだけではない。気後れしたが、陽は校庭を歩いた。気を付けないと、近頃は、それだけのことでも疑いの眼差しを向けられることがある。子を持つ親にとっては、宝物を守るためには、朝からうろついている人物をどれだけ疑っても疑い過ぎることはないという心地だろう。


 自分は、なぜあの子を宝物と思うことができなかったのだろう。人生を壊す存在だと疎んだのは事実だ。ところがどうだ。人生を壊したのは自分自身だ。それどころか、巡と我が子の人生すら壊してしまった。


 我が子を捨ててまで、辿り着ける幸せとは何か。陽には思いつかなかった。本当の、ただ一つの願い。それはただ一人の、ただ一人だけのための願いなのだろうか。


 ブランコがある。男の子も女の子も一生懸命に遊んでいる。ひかると名付けた、あの男の子の姿はない。


(いまは、どこで、だれの願いを見守っているのだろう)


 校庭を後にした陽は、街へ出掛けることにした。日の当たる時間に街へ行くことなど、実に久しぶりのことだった。


「どういう心境の変化だね」


 影法師の問いに、残念ながら答えてやれない。戸惑っているのは陽も同じだ。


 東西に長く伸びる街を横切り、港まで歩いた。仕事からの帰宅道、あの坂から振り返る海は、いつも橙色だった。今、海は深い藍色だ。所々が輝いている。眩しい。海がこんなにも眩しいものであることを、陽は忘れていた。そして海は、ひたすらに広かった。理由を問うのも馬鹿馬鹿しいほどに、ただ開け放たれていた。


 潮の香り。波の音。行き交う船。釣り糸を垂れる人。親子の姿。


 自分だけを異質に感じた。次元の隔たりを感じた。それでも日差しは暖かく、海は何かを待っているように静かだった。


 一時間も海を眺めていた。


 港近くのカフェが、店先に白いパラソルを並べている。その陰の一つに入って、陽はかき氷を頼んだ。イチゴ味で練乳がたっぷりかかったかき氷だ。


「大の男が一人で食べるものじゃないね」


「お前も一緒に食べるだろ」


「御免被る」


「それなら、どこかにいくべきだ。ここはかき氷を食べるカフェなのだから」


 影法師を追い払った陽は、小さな爽快を感じた。運ばれてきたかき氷の、甘さと冷たさは、なお爽快だった。


 午後になって、陽は街中を歩いた。カジュアルな服を並べた店や、開放感のある大きな書店や、雑貨屋も巡った。どこの店でも迷惑な冷やかし客だったが、陽の心は膨らんだ。心に積もる物質の正体は分からないが、見当は付けた。おそらく、これが生きている実感というものだろう。


 生きている。街を行き交う人の中で。同じ時を生きているのだ。たとえ世界の隅っこであろうと、世界の一部には違いない。  


 夕方、陽は独房に戻った。坂道で、手を繋ぐ漫画家夫妻と一緒になった。手を繋いで歩くことがまだ絵になる若い二人。どこか華やいでいる。お互いに、口喧嘩の新しい攻略法を見つけたというわけではなさそうだった。


「子供ができたんです」


 恥ずかしさと誇らしさを半分ずつにした顔で、夫が陽に話しかけてきた。妻は照れた笑顔を伏せた。


「それはおめでとう」


 陽の顔も驚きと寿ぎが半分ずつだった。


 宮殿の住人が信じていたとおり、漫画家夫妻は、根っこは仲の良い夫妻だったのだ。妻の懐妊を、こんなにも誇らしげに感じる夫がいる。


「他の人達にはまだ話していないんですが、東京へ出ようと思います。これまでは断っていたけど、これからは連載もどんどん増やしていこうかと思って。俺、やりますよ」


「…そう。それじゃ頑張らないとね。さみしくなるよ」


「静かになるよ、でしょ」


 夫が言うと、妻は夫の腕を叩いた。陽は笑った。久しぶりの朗笑だった。


 夫妻は一歩先を登って行く。陽はその後ろ姿をしばらく見ていた。


「大事な宝物を見失わないよう忠告しなくていいのかい?」


 影法師が囁く。そんな必要はない。忠告などなくても、彼らは宝物を失くしはしない。


「彼らは水島陽ではないのだから」


 影法師よりも辛度の高い皮肉を自分で言って、陽は振り返った。夕日が見える。海に沈もうとしている。胸を衝いてくる。また登りはじめた時、漫画家夫妻は、もう小さな影になっていた。


 幸せは仲間好きらしい。世界の隅っこの宮殿に、立て続けに幸せが訪れた。母子家庭と漫画家夫妻。連鎖は続く。


 漫画家夫妻が羽ばたくように東京へ出て幾日も経たない日の夕方、帰宅した陽は、404号室の玄関口に重厚な身なりの男性が二人立っているのを見た。


 そこは自称大学教授の部屋(ラボ)だ。どうやら、玄関の扉越しに話をしているようだ。郵便受を覗き、チラシ広告を掴みだし、独房へ至るまでの間に、幾つかの会話が零れてきた。もっとも、扉の向こうの発明家の声は聞こえない。


 男性二人は、何やら謝っていた。大学に戻ってほしい。そんな声も聞こえた。 


 大学教授というのは、虚言ではなかったようだ。その事実を意外に感じながら、陽は独房の扉を開けた。そして閉めると、彼等の会話はもう聞こえなくなった。


 陽が驚きの声を上げたのは、数日後の、昼食をとっているカフェの中だった。


 スマートフォンでネットを見ていた。薄っぺらく、媚びるような、もしくは唆すような記事のしたり顔を確認するだけの作業のはずだった。


「今泉氏、士学院大学学長に復職」 


 太く書かれた文字の横の丸抜き写真は、まさしく404号室の住人の顔だった。


 記事によれば、今泉氏は、士学院大学開学者の一人だ。学長を三期務めたが、真理探求に重きを置く経営手法が、収益性を重視する経営陣と一部の教授との対立を招き、五年前の理事会でのクーデター的動議により、辞任を余儀無くされたとのことだ。


 その後の士学院大学は少子化を見込んで学力の垣根を下げ、AO入試の聞こえの良さだけを利用して学生の取り込みに一定の成果を上げたものの、学生がただ卒業するだけの大学と成り果てた。情熱を抱く学生、学志を羽ばたかせようとする学生の足は遠のいた。慌てた経営陣と一部の教授は、一度は追い出した宮殿の住人、今泉氏を再び学長に招いた、という顛末だ。


 404号室の前にいた重厚な装いの二人組は、クーデターを起こした側の人間だろう。実行者でなくとも、少なくとも今泉氏を援護しなかった人物であるに違いない。地位や持っている権限が重い人物ほど、手の平は意外に軽いものだ。


 厚顔無恥な復職依頼を断ろうとはしなかったのだろうか。そんな場面を想像した。一度は断っただろう。『楽して星みようくん』を土産に持たせ、追い返したに違いない。しかしそれでも、大学教授の心には、教育者としての思いが熱く燃え盛っていたのだろう。


 404号室も空室になった。今泉氏は、退去の挨拶に陽の部屋を訪れた。そして、『楽して星みようくん』を残していった。手の平が翻りやすい人物に渡ったとばかり思っていた画期的な発明品は、意外にも陽の部屋に新たな居場所を得た。何のゴミに出せばいいのだろう。陽の感想は、それだった。


 発明家が表舞台に勇躍して行ったその日の宵口、陽の部屋の呼び鈴が鳴った。音楽家だった。彼の手には、ギターがあった。


「夜空の下で一曲やろうと思うんだが、こないか」


 ということだった。断ろうと思った。


「出かけるところだったのかい?」


 卓上ライトだけの陽の部屋を、音楽家が覗き込む。


「いえ」


 いつも真っ暗なんです、とも言えなかった陽は頭を掻いた。


「どうせ暗いなら、夜空の方が楽しいぜ」


 理屈がいまいち理解できなかったが、なぜか魅力的な誘い文句だと思えた。


 太陽の宮殿(サニーパレス)は四階建て。その上に塔屋が建つ屋上がある。管理人以外立ち入り禁止と、張り紙は事務的な顔をしているが、扉と鍵はのんき者で、音楽家がドアノブを回すとあっさりと開いた。


「いつも鍵はかかってないんだぜ」


 音楽家が秘密を教える時の顔で言った。


 屋上からの夜空は、いつものように街明かりが邪魔をしているが、それでも瞬く頑張り屋の星を、いつもより近くに感じた。


 古い友人がやってきて、昔に預けたギターを置いて帰った。音楽家はまずそう話した。それから一曲。弦をつま弾き、カウンターテナーの歌声が、静かに陽の心を揺さぶる。音楽家の好きな曲だ。陽も、そしておそらくは宮殿の住人みんなが聞き惚れた曲だ。この歌を聞くのも、陽一人になった。


 いや、もう一人いた。陽には見える。錆びた鉄柵に腰掛け、おぼろな光をまとったひかるが、瞳を閉じて聞いている。


「やぁ、お前も来たのか」


 音楽家がそう言ったから、陽は驚いた。


「何日か前から、ちょくちょく俺の歌を聴きにくる」


 音楽家は陽に笑いかけた。陽も笑顔だ。


「へんなやつだよな」


 そう言われたひかるは、柵に腰掛けて澄ましている。


 へんなやつ。確かにそうだ。いつの間にかやってきて、いつの間にかいなくなる。その僅かな時間で、安らかな気持ちになる。


 音楽家が、また歌い始めた。オリジナルの曲らしい。少年時代を振り返る歌。切なく、懐かしく、歩んできた道とこれから歩くであろう道を想わせる歌。歌声が星空に昇る。ひかるは陶酔したように瞼を閉じている。微笑んでいる。


 陽も目を閉じた。ひかるのような、穏やかな表情になれている自信はなかった。


「あいつら、上手くやっていけるよな」


 母子と漫画家夫妻と大学教授のことだ。今夜は、彼等のために歌いたかったのだろう。


「きっと、ね」


 寂しい思いはある。世界の隅っこでひっそりとしながら、一日のうちの僅かな時間、賑やかになる場所。


 陽は気づいた。世界の隅っこと蔑みながらも、ここで安らいでいたこと。憩いの時を、ここで過ごしたのだと。


「おれも、ここを出るよ」


 音楽家がそう言ったとき、陽は驚かなかった。どこかで予感していた。


 古いバンド仲間が戻ってきた、と音楽家は話した。方向性を違えて、一度は去った仲間達。『ミュージシャンではなく音楽家』。彼の信念の真意を、陽には理解できようはずはない。音楽家の仲間達がその真意に辿り着いたかどうかも分からない。ただ、もう一度あいつと音楽をしたい。仲間達がそう思ったことは確かだろう。そのときを、音楽家はじっと待っていたのだ。


 音楽家は陽の肩を叩き、屋上を去った。ギターケースを背負い、単車を走らせる。エンジン音が遠ざかり、やがて聞こえなくなったとき、陽は気づいた。世界の隅っこの、ただ一人の住人となったことに。


 夜空を見上げた。都会の空で、星々はなんとか星座を結んでいる。心許ない星明かり。


 漫画家夫妻、母子、大学教授に音楽家。彼等は、それぞれの星明かりを掴んで行った。


 彼等と陽。決定的な違いがある。彼等は、待っていた。陽には待つべき者がいない。ただ、捨てただけの人間だ。そう思えば、心許ない星の明かりも、眩しく、遠く見える。


 ひかるは、まだ柵に腰を下ろしたままだった。じっと陽を見詰めている。問いかけてくるようでもあり、待っているようでもあり、陽が歩いてきた過去を見通しているようでもある。吸い込まれそうな純黒の瞳だ。


「次は、どこにいくか決めたのかい?」


 陽はひかるの傍まで歩み寄り、柵に両肘を乗せた。ひかるの瞳をもっと間近に見たかった。そのくせ、視線の接触を避けて、夜空の遠くを見た。


「ここには、光がもう一つ、残っているよ」


「本当の、ただ一つの願い…。そんなもの、どこにもないさ」


「ぼくには見えるんだ。ぼくは、ぼくが見える人の傍にいる」


「それでも、もうここにはなにもない」


 時間を止めてしまった愚かな人間がひっそりと息づくだけの空間だ。今夜から、ここはそうなるのだ。


「本当に見失ってしまっているのだね」


 ひかるが、陽の腕に手を置いた。その白さからは想像できない、温もり豊かな手の平だった。


「パズルの話をしたね。ピースを集め直してごらん。立ち上がって、見回して。来た道も、これから行く道も。ズボンのポケット、上着のポケット、ぜんぶ叩いてみてごらん。きっと零れ落ちるよ、隠れたピース」


 ひかると陽の視線が交差した。吸い込まれた。黒い黒い瞳に。体が浮いたような気がする。心が浮いたのかもしれない。落ちるような黒い夜空が広がって、星が遠ざかり、街明かりに薄められたいつもの夜空があった。


 陽は屋上で仰向けに横たわり、空を見上げていた。いつからこうしていただろう。今一瞬のような気もするし、ずっとこうしていたような気もする。風が吹いた。少し涼気を含んでいた。


「夏も終わるよ」


 ひかるの声が聞こえた。それは、やはり風だったかもしれない。

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